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お母さんと呼べなかった娘の話 『コーヒーが冷めないうちに』最新作・第6巻試し読み

 日本で2015年12月に第1巻が発売され、世界中に広がっている小説『コーヒーが冷めないうちに』(著:川口俊和、サンマーク出版)。本屋大賞2017にノミネートされ、2018年には有村架純さん主演で映画化。これまでに第5巻まで続編が発表され、シリーズ累計部数は全世界500万部を突破しています。

 その最新作となる第6巻『愛しさに気づかぬうちに』が本日9月25日に日本で発売を迎えました。

 義理の母と、恋人と、父と……。そばにいたのに、すれ違ってしまった人達の、再出発の物語。冒頭の試し読みをお届けします。

『愛しさに気づかぬうちに』 サンマーク出版
『愛しさに気づかぬうちに』

プロローグ

とある街の、とある喫茶店の
とある座席には不思議な都市伝説があった

その席に座ると、望んだ通りの時間に戻れるという
ただし、そこにはめんどくさい……
非常にめんどくさいルールがあった

一、過去に戻っても、この喫茶店を訪れたことのない者には会うことはできない
二、過去に戻って、どんな努力をしても、現実は変わらない
三、過去に戻れる席には先客がいる
  その席に座れるのは、その先客が席を立った時だけ
四、過去に戻っても、席を立って移動することはできない
五、過去に戻れるのは、コーヒーをカップに注いでから、
  そのコーヒーが冷めてしまうまでの間だけ

めんどくさいルールはこれだけではない
それにもかかわらず、今日も都市伝説の噂(うわさ)を聞いた客がこの喫茶店を訪れる

喫茶店の名は、フニクリフニクラ

あなたなら、これだけのルールを聞かされて
それでも過去に戻りたいと思いますか?

この物語は、そんな不思議な喫茶店で起こった、心温まる四つの奇跡

第一話「お母さんと呼べなかった娘の話」
第二話「彼女からの返事を待つ男の話」
第三話「自分の未来を知りたい女の話」
第四話「亡くなった父親に会いに行く中学生の話」

あの日に戻れたら、あなたは誰に会いに行きますか?

 第一話 お母さんと呼べなかった娘の話

一九九九年 十月
「離して!」
 鹿児島の天文館アーケードに少女の声が響いた。
 少女の名前は東郷(とうごう)アザミ。夜の天文館アーケードは無数のネオンが点灯し、通り全体が色とりどりの光に包まれている。通りには多くの居酒屋が並び、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
 アザミはトレーナーにジャンパーを羽織っただけの軽装で、衝動的に家を飛び出して、街をさまよっていた。
「待って!」
 人混みの中、アザミの腕を義母の由美子(ゆみこ)が摑(つか)んだ。
 由美子の表情は疲れ切っていた。突然いなくなったアザミを捜しつづけて、三日三晩、一睡もしていなかったからだ。目の下には深い隈が刻まれている。
 アザミは摑まれた腕を、体ごと振って強引に離した。手に持っていたリュックが近くを歩いていた男に当たる。男はアザミを一瞥(いちべつ)しただけで、すぐに人混みの中に紛れてしまった。
 アザミは人混みの中に逃げ込むように、由美子から距離をとる。
「アザミちゃん、待って! 待ってちょうだい!」
 由美子はやっとの思いで見つけたアザミを見失わないように、人の波をかき分けて追いかけた。
「……」
 リュック一つで家を飛び出したアザミは、三日間、鹿児島の繁華街をさまよっていた。家のある宮崎から鹿児島までは、高速バスを使っても片道三千円ほどかかる。中学生のアザミの持てるお金などたかが知れている。まともな食事も摂(と)れていなかったのか、顔色はひどく悪かった。十月上旬となれば、夜の気温はぐっと下がる。雨に濡(ぬ)れるだけでも体調を崩しかねない。
 この三日間、アザミがどこをさまよい、どのように過ごしていたのかを想像すると、由美子の心は握りつぶされるように痛んだ。
「アザミちゃん!」
「ついてこないで!」
「待って! お願いだから!」
 行方がわからなくなっても、アザミの父親、元治(げんじ)は、世間体を気にして捜索願を出すことを拒んだ。「そのうち帰ってくる」の一点張りで、娘を捜そうともしなかった。由美子はアザミの友達からアザミが天文館アーケードに向かったという情報を得てアザミを探し回り、やっと見つけることができたのだった。
「アザミちゃん!」
 由美子の手が、再びアザミの腕を摑む。
「しつこい! 離してよ!」
 怒りに任せて振り回したアザミの手が由美子を突き飛ばす。由美子はバランスを崩し、尻餅をついた。
「もう、ほっといて!」
 由美子は、アザミが走って逃げ出すのではないかと、すぐに立ち上がる。
「放っておけるわけないでしょ? なんでそんなこと言うの?」
 由美子は悲しそうな目でアザミを見る。
(私はあなたのことをこんなに心配して捜し回っていたのに……)
 由美子の目はそう訴えている。
 アザミは答えるのも嫌だと言わんばかりに、うんざりとした表情で目を伏せる。由美子は臀部(でんぶ)についた汚れを払いながら、恐る恐るアザミに近づいた。
「お願いだから、帰ってきて。お父さんだって心配してるのよ?」
「嘘(うそ)だ。本当は、いなくなってせいせいしてるに決まってる」
 アザミがつぶやくように言った。
「お父さんだけじゃない。あんただってそう思ってるんでしょ? 私さえいなければって! 血もつながってないのに無理してお母さんぶらないで!」
(いなくなってせいせいしてる? 誰が? 私が?)
 由美子はアザミの父親と結婚してから、一度だってそんなことを考えたことはなかった。むしろ、一日でも早く「お母さん」と呼んでもらうために努力してきたつもりだった。
(私の努力はなんだったの?)
 由美子は呆然(ぼうぜん)とアザミを見つめ返した。
 三日間、不眠不休で捜していた疲労と、報われなかった努力への徒労感。父親と娘の間に挟まれ、元々は赤の他人であった自分がなぜこんなにも苦しまなければならないのかという疑問。それが一気に混ざり合った。
 由美子の全身から力が抜けていく。
 頭の片隅から、もう一人の自分の声が聞こえる。
(私も、この子のことを自分のこだと思い込もうとして無理していたのかも知れない。しょせんは、血のつながらない他人の子)
 由美子はゆっくりと目を閉じた。訳もなく、涙がこぼれる。
(もう、がんばれないかもしれない)
 由美子の方からショルダーバックが地面に落ちた。
 アザミはバッグを一瞥したが、拾おうともせず、うなだれる由美子に向かって、
「私、もう、あの家には戻らないから……」
 と言い残してその場を去った。
 夜の天文館アーケード。
 アザミは、無表情に行き交う人々の中に呑(の)み込まれていった。

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二〇一九年 一月

「当時、私は十四歳でした」
 アザミは遠くを見るような目でつぶやいた。
 ここは、喫茶フニクリフニクラ。この喫茶店には過去に戻れる席があるという噂(うわさ)があり、年に数人、過去に戻らせてほしいと言って訪れる客がいる。アザミもその一人だった。
 アザミの話を聞いているのは、清川二美子(きよかわふみこ)、三田絹代(みたきぬよ)、そして、時田数(ときたかず)の三人である。
 二美子は医療系機器を製造する会社のシステムエンジニアで、アザミの後輩である。アザミは結婚を機に退職して専業主婦になっていた。
 アザミは両手で顔を覆い、
「私は自分が同じ境遇になって、初めて、母を深く傷つけていたんだと気づいたんです」
 と、独り言のようにつぶやいた。
 同じ境遇とは、自分が由美子と同じ立場になったという意味である。アザミの結婚相手には連れ子がいたのだ。
「あなたの娘さんも、反発しているの?」
 カウンター席でアザミの言葉に静かに耳を傾けていた絹代が優しく尋ねた。
 絹代は店主の時田流(ときたながれ)の淹(い)れるコーヒーが好きで、日曜日のこの時間には決まってコーヒーを飲むために来店する。
 アザミは、絹代の問いに静かに首を横に振って、
「娘は、私のことを最初からお母さんと呼んでくれてて……」
 と、そこまで答えて声を詰まらせた。
 向かいの席に座る二美子とカウンター席の絹代は、何も言わず、アザミの次の言葉を静かに待った。
「すみません」
 アザミは、泣くまいと思っていたのに思わず泣いてしまったことを謝って、話を続けた。
「どうして私も娘のように母に対して優しくなれなかったんだろう、どうして私はあんなに反発して、母のことを『お母さん』と呼んであげられなかったのかと思うようになっていた頃、父から十数年ぶりに連絡があり、母が亡くなったと……」
 アザミは再び声を詰まらせた。
「いつか、謝れる日が来ると思っていたのに……」
 アザミは後悔していた。幼かったとはいえ、義母に冷たくあたってしまったこと、そして「お母さん」と呼んであげられなかったことを。
「私はひどい娘です……」
 アザミは再び両手で顔を多い、肩を揺らした。
 店内にアザミの嗚咽(おえつ)と、カチコチと柱時計が時を刻む音だけが静かに響き渡る。

  カランコロン

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 【著者】
川口俊和(かわぐち・としかず)
大阪府茨木市出身。1971年生まれ。小説家・脚本家・演出家。舞台『コーヒーが冷めないうちに』第10回杉並演劇祭大賞受賞。同作小説は、本屋大賞2017にノミネートされ、2018 年に映画化。川口プロヂュース代表として、舞台、YouTubeで活躍中。47都道府県で舞台『コーヒーが冷めないうちに』を上演するのが目下の夢。趣味は筋トレと旅行、温泉。モットーは「自分らしく生きる」。