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鮨界のサラブレッド「鮨しゅんじ」が目指す理想は、すべての人に優しい鮨〜連載第5回〜

みなさん、こんにちは。
食のディレクター
山口繭子と申します。

『エル・グルメ』や『婦人画報』で
エディターとして働き、独立。

今は食にまつわるあれこれを
書いたり、編集したり、
企画したりしています。

この連載では
そんな仕事を通して私が出会った人々、
とりわけ
料理を通じて己を表現する人=シェフ
を毎回、紹介していきます。


「鮨屋が怖い」から卒業したい

私、鮨が大好きです。
魚の国に生まれ、
魚好きに育ち(ついでに酒も)、
さらに食の仕事に就いたものですから
昔から密かに
鮨通になりてぇもんだ(江戸っ子)」
と思っていました。
が、かつて在籍していた
マダム誌編集者時代、
そんな夢が打ち砕かれる出来事が。
当時、東京の鮨を代表すると言われた
有名店を訪れた際のことです。
奇跡のような偶然で予約が取れましてね。
しかし、氷のように冷たいサービス、
女3人客の不慣れを
無言の内に攻め続ける空気、
機関銃のようなスピードで提供される鮨、
皆、違う飲み物を頼んだのに
「はい、お一人○万円!」な丼勘定。
思い出しても泣けるわ……。

口に残った味や記憶は
ずっと、しょっぱいままでした。
あれから長い時間が経ちました。
エイジングのおかげで、強くなった私。
それでも鮨店に対しては
まだ気負うところがあります。
なので、友人に誘われ
初めて「鮨しゅんじ」を訪れた時は
正直、心から驚いたのです。

こんなに優しい鮨があるのか?!

「鮨しゅんじ」が胸を張る、すじこの鮨。見た目から血圧上昇プリン体爆弾を想像するかもしれませんが、漬けによる余分な塩味は無し。魚卵の豊かな味わいがのったシンプルな一貫で、弾力がありつつもきれいにまとまったビジュアルが印象的。海苔の味の勝った軍艦ではなく、すじこの味そのものを楽しんでもらいたいと発案。リッチな魚卵の風味を口中に残しつつ数秒で消えゆく美味。

今回ご紹介するのは
「鮨しゅんじ」の橋場俊治さんです。
その経歴は
鮨界のサラブレッドそのもの。
服部栄養専門学校を首席で卒業し、
名店「鮨かねさか」で修業を積み、
名店「鮨さいとう」でも修業。
二番(副料理長)を務めました。
ちょっともう、この3つの情報だけで
少しでも鮨を知る人であれば
ははぁ〜!(平伏)」
となってしまいそうです。
しかし、ひれ伏す必要はなかった。
それどころか、
「しゅんじのおでん」で始まるコースは
初心者の私を最後まで
優しく楽しませてくれたのです。
生き生きとした魚の食感、
香り、甘さ、余韻の上品さが
溢れるコースは
水菓子まで入れて全部で22品。
うち13品が鮨でした。

素直に楽しんでくださいねー。
なんでも聞いてくださいねー。
魚、おいしいのばかり揃えましたからねー。

俊治さんの心の声(推定)

料理をいただいている間、
俊治さんの気配りが
口には出さないものの
伝わってくるような気がしました。

2人の偉大な鮨職人の元で成長

包丁を持つ時、鮨を握る時、俊治さんは日本人形のように凛々しく、美しい。ぼーっと見とれたり黙ーって動画や写真撮ったりしているのは私だけではなかった。しかも、お話ししている時の眼差しは常に笑顔なのに、料理の時は真剣そのもの。客席のゲストたちの盛り上がりとは対照的に月のように静かな大将が、この場の不思議な空気感を形成していた。それにしても見てこの指先。ぴーん!

前述しましたが、
俊治さんが修業したのは、
「鮨かねさか」と「鮨さいとう」。
共に超予約困難な名店として知られ
これを書く途中、
「食べログ」で両者の点数を見て
ひっくり返りそうになりました。
(俊治さんの店も驚愕点ですが)
ですが、もっと興味深いのは
師匠の店の雰囲気や
鮨のあり方と比べ、
俊治さんのスタイルは違う
ということです。
若くして銀座の星のような地位に
上り詰めて話題となり
その後の世界展開も華やかな
「鮨かねさか」金坂真次さん。
その「鮨かねさか」で修業を積み
独立後は瞬く間に
ミシュラン三つ星店となった
「鮨さいとう」の斎藤孝司さん。
この2人の元で育ったなら
ブイブイ! イケイケゴーゴー!
と、さぞかし威勢のいい職人が
育つんだろうと思ったら
全然違う穏やかな人、
それが橋場俊治さんなのです。

取材の日、最初の一品は「しゅんじのおでん」。「まずはほっとしていただきたいですしね」とすっかり定番メニューに。カワハギのはんぺん、穴子と蓮根のさつま揚げ、じっくりと煮た大根。私の個人的な印象として、鮨店の前半戦といえば「ほーれ、たっぷりお酒飲んで!」と言わんばかりに、おつまみ的な料理が出るイメージだったけれど、「鮨しゅんじ」は帰宅した子を迎える母ちゃんのよう。

18歳で服部栄養専門学校に入学し、
早々に通い始めた
アルバイト先が「鮨かねさか」。
メンターとして付いてくれたのが
当時、頭角を表していた
斎藤孝司さんだったというあたり、
俊治さんってすでに
“持ってる人”だなぁ!
……と思わないでもないですが、
彼の鮨人生にとって
もう一つ影響を与えたもの、それは
生まれ育った環境でした。

神津島育ちの釣り大好きボーイ

神津島村立神津小学校時代。島に小学校は1校のみ(それでも開校130年を超える伝統校!)、東京都下でありながら学年全体が親も子も皆家族のような、そんな環境。剣道の稽古後にお汁粉(?)を頬張る俊治少年のおぼこさ、かわいさにキュンです。が、朝、登校前や帰宅後も釣り三昧という魚好きっ子で、包丁を握るまでに時間はかからなかったそう。

俊治さんは1986年生まれ。
生まれたのは長野県でしたが、
その後、家族と東京都神津島に移住します。
伊豆半島から南東に位置する
小さな島は、俊治さんにとって
まさに天国。楽園でした。

神津島に移住して生活は一変しました。
もう、どこででも釣りができるんです。
堤防でも、磯でも、釣り三昧。
親友が出来て、彼も釣りが大好きで、
僕の祖父も釣りが上手で。
島ではそんなに上等な魚は釣れませんが
それでも、メジナやムロ鯵、鯖など
家に帰るのも忘れるくらい
釣りに没頭していました。

俊治さん談

家での暮らしも充実していました。
釣りを教えてくれた祖父や
料理上手で近所でも評判だった祖母の存在が
やがて家でも魚を捌いたり
キッチンで過ごす時間のきっかけに。
「鮨しゅんじ」のサイトでは
祖母、ようこさんとの
思い出が語られています。

幼いころから、
遊びといえば釣りでした。
誕生日プレゼントは出刃包丁。
釣ってきた魚は、
祖母に教わって捌きました。
家族に「美味しい」と
言ってもらえたのがうれしくて
翌日たくさん釣ってきたら
「食べられる分だけ釣ってきなさい」
と叱られました。

「鮨しゅんじ」のWebサイトより

いい関係だなぁと思いながら
話を伺っていたのですが、
「おじいさんとおばあさんは
俊治さんのお鮨を喜ばれた?」
と質問したところ、
悲しい答えに胸が詰まりました。

祖母には食べてもらえなかったんです。
僕は当時、東京で鮨の修業中で
祖母が癌で倒れたと聞いてから
亡くなるまでは
あっという間のことでした。
次に祖父も同じく癌になって。
もう後悔するわけにはいかないと、
築地市場(当時)に行って
買えるだけの食材を買い集めて
神津島に戻りました。
鮪、白身、海老、いくら、ウニ。
一応サーモンも買っとくか……って。
で、祖父に会えたんですが
すっかり弱ってしまってて
「いちばんやわらかいのをくれ」と。
咀嚼もあまり出来ないので
なるべく小さく握ってくれ、
と言うんです。
えー、せっかく張り切ったのに
サーモンかーと思いながら
小さな一貫を握ったら、
それでも涙を流して
「今まで食べた鮨で一番おいしい」
って言ってくれました。

俊治さん談

プライドなんてない、それがプライド

優しさと温かさ。どうりで俊治さんの鮨も店の空間も、食べ心地と居心地がいい。かといって、そばにいた「ザ・鮨通!」って感じのお客さんからの鋭い質問には、適時プロフェッショナルに返事をされてました。要するに、ゲストが「幸せ♡」と感じてくれるように、さりげない中にも手を替え品を替え、おもてなししてくださってるんですね。合掌。

釣りを教えてくれた祖父と、
料理を教えてくれた祖母。
一人前になってからの
会心の鮨を食べてもらうことは
叶わなかったけれど、
まだ開業前という段階で
俊治さんは大きな気づきを得ました。
それは、
自分が目指すべきは優しい鮨だ、
という答え。

しかし、
今やアートだ、道だと言われる
鮨の世界において
“優しさ”を第一義にするのは
難しいのではないでしょうか。
だって、高級鮨店で私、
アレルギーがありますとか
お酒は飲みませんとか
シャリは極力小さめでとか
そんなあーだこーだを
言う勇気はありません。
名店の鮨には客が合わせるもの、
内心、そう思っていました。
しかし俊治さんのスタイルは違う。

お客さんの“苦手”には
なるべく応えて差し上げたいと思ってます。
火を通して欲しいとか
硬いものは難しいとか、
大きいものは食べられないとか。
それでも「おいしい」と思ってもらえるよう
なるべくフィットさせたいです。
ちょっとしたことですもん、
そこにプライドなんて不要です。
いや、そんなの持たないことが
自分のプライドだと思ってるんです。

俊治さん談

目指すのは、誰とも違う「しゅんじの鮨」

18歳の出会いから20年間の付き合いになる現「鮨さいとう」の齋藤孝司さん(左)は、もはや師匠であり人生の師でもあり。でも性格は違う。兄貴肌で人情派、お酒が大好きな齋藤さんは天性の愛されキャラ。しかし、そんな齋藤さんが握る鮨といえば、まるで美しい流線型を描く手のひらサイズのポルシェのようです。俊治さんは「鮨さいとう」で長く一番弟子を務めました。

「鮨かねさか」金坂真次さんと
「鮨さいとう」斎藤孝司さん。
偉大な2人の先輩の存在は
俊治さんにとっては
今後も永遠に特別なものです。
けれど、
継承するだけではない
というのが
とってもいいなとも思うのです。
特に私が感銘を受けたのは
店の心地いい雰囲気を形成する要素が
今っぽい、という点でした。
例えば
「鮨しゅんじ」には
黒いソムリエジャケットを着た
橋場彩子さんがいます。
俊治さんの妻であり女将ですが、
彩子さんの
軽やかな明るいサービスと
お酒選びの的確さ、
インバウンド客への
流暢な英語での説明は
このまま海外に出店しても
やっていけるんじゃ?
……という気がします(行かないで)。

コロナ禍によく集まる
飲食業者の仲間たちの交流で
俊治さんと出会いました。
バリバリの鮨職人!かと思いきや
割と新しい考え方をする人で。
私が昔経験して感動したのは
「トロワグロ」という
星付きのフランス料理店での
サービスでした。
星付きなのに気さくで
ウイットが効いてて楽しいんです。
「鮨しゅんじ」もそういう店にしたい!
……というのは二人共通の思い。
また、私は富山県出身で
北陸の魚介類には思いが強いのですが
俊治さんは富山の日本料理店に学んだり、
時には
「海老をもっとおいしい鮨にしたい」と
スペインで体験した調理法を
店で応用してみたり。
やること、やりたいことは
まだまだたくさんあります。

彩子さん談


2023年に訪れたスペイン、サンセバスチャンにて。キュートな表情の二人だけれど、人気レストラン「チスパ」で、日本人シェフ前田哲郎さんが供した薪焼きの海老のおいしさに「嫉妬するほど感動した」んだそう。鮨のコースの中ではなんとなく軽んじられることの多い海老をなんとかしたいと、帰国後に必死で海老の一貫の“改革”に取り組んだとか。

この人にしてこの皿あり。「鮨しゅんじ」の場合

ウニの太巻き。ギリギリまでたっぷり詰めたウニを薄く伸ばしたシャリで包み、しっとり香ばしい海苔でくるっと巻いて。俊治さんは豊洲だけでなく各地の生産者や漁業者を直接訪ね歩き、仕入れをしていることもあり、他店ではなかなか見かけない贅沢な食材の使い方を可能にしています。

たっぷりと話を伺い、
後日、「鮨しゅんじ」の鮨を
ひと通りいただきました。
そうすると改めて
分かったことがあります。
それも、すごくたくさん。
例えば、通常の鮨店以上に
魚の食感がもたらすインパクトの強さ。
ネタの食感がぶりっぶりだったり
とろっとろだったり
なのは、
熟成させるよりも
なるべくフレッシュに仕上げる方が
魚の個性が伝わり、
俊治さん好みだからだそうです。
米に甘さや風味があるのは
「鮨は古米に限る」
という通説に
従っていないから。
「新米も塩や酢のバランスで
おいしい鮨になる」との弁です。
そして、
食後に猛烈に喉が渇いたり
食べ疲れすることがありません。

塩や酢はかなり控えめにしており
その分、
食材のビビッドな味わいを
楽しめるように
計算されているからです。
そんな工夫の数々を
最も強く感じさせてくれたのは
ウニの太巻き。
まるでロールケーキのようで
クリームはウニです。
たっぷりとミルキーな
ウニが詰まっていて
シャリの部分は薄く仕上げ
しっとりした海苔が
ギリギリの加減で
それらをまとめ上げていました。
どうやったら
こんなにやわらかく繊細なものが
巻物になるのか。
意味がわかりません。
あぁ、でも「なぜか」は分かった。
このウニの太巻きであれば
亡くなったお祖父さんはもちろん、
いろんな境遇にある人が素直に
「お鮨っていいな」と
そう思うに違いありません。

俊治が仕事中に着ている白衣は、
師匠である齋藤さんとお揃いです。
デザイナーもサイズも。
お互い背中には
家紋が刺繍されています。
齋藤さんは松、俊治は下り藤。
「鮨しゅんじ」の下り藤は、
亡くなったおばあちゃん(ようこさん)の
家紋なんだそうなんです。
「おばあちゃんにはお鮨を
食べさせてあげれなかったから」と。

彩子さん談

敷居が高くて
なんか威圧感があって
いつまで経っても
心底楽しむことが許されない。
それが、これまでの
私の鮨イメージでしたが
時代は動いていると気づきました。
優しい鮨で世界を変える、
橋場俊治さんの
熱くて静かな鮨ロード。
ついていきたいなと
心から思ったのでした。


鮨しゅんじ
東京都港区元麻布3丁目6−34 カーム元麻布 1F
電話:03-6434-5021(営業時間とその前後は電話対応不可)
HP:https://www.sushi-shunji.tokyo/

橋場俊治さん
1986年長野県生まれ、東京都神津島育ち。18歳で「服部栄養専門学校」入学。入学後にアルバイトで入った「鮨かねさか 本店」で鮨の道に目覚める。当時メンターを務めたのが同店で二番手だった齋藤孝司さん(現「鮨さいとう」店主)。「服部栄養専門学校」首席卒業後は「鮨かねさか」に就職し、修業を積む。一旦東京を離れ、長野県で料理の仕事に就くも再び鮨職人を志して上京。2015年、29歳の時に「鮨さいとう」の二番手として個室を任される。2020年には同店初の暖簾分けを受けて独立し「鮨しゅんじ」開業。2023年、元麻布に移転。


写真・文/山口繭子
神戸市出身。『婦人画報』『ELLE gourmet』(ハースト婦人画報社)を経て独立。食や旅、ライフスタイル分野を中心にディレクションやコンサルを行う。ファインダイニングから角打ち居酒屋までジャンルのストライクゾーンはメジャーリーグ級(自称)、酒が友達。https://note.com/mayukoyamaguchi