18歳でビジネス界の天才と呼ばれるような人がなかなか出てこない必然
ピアニスト、チェス競技者、体操選手などが早期教育によって、しばしば驚くほど若い年齢で高い水準をもつ達人になることがあります。
しかし、なぜ若い達人たちはこうした分野に限られているのでしょうか。ビジネスの世界において同じことは起きないのでしょうか。
『新版 究極の鍛錬』よりお届けします。
ビジネスで天才児をつくるべきか
ビジネスの世界では、16歳の天才児に遭遇することはないのだろうか。お座なりの答えとしては、その年の子どもは、まだ法律上契約の当事者にはなれないので小切手に署名したり、不動産賃貸契約を結んだりすることができないからだというものだ。
しかし、この質問に答えることは、いつどの特定分野で子どもの訓練を開始すべきか、それはどう行うべきか、またビジネスやその関連分野では早期能力開発の原則はどのような意味をもつのかといった、より重大な真実を明らかにしてくれる。
このように考えることで、ビジネス界や政界で傑出した存在となった私の大学時代の同級生が、なぜ学部生時代にはその将来の有望さに見分けがつかなかったのか、一方、将来の地位が若くして明確だったケースもあるのか、という謎も解けはじめる。その答えは、究極の鍛錬の核心に迫っている。
なぜいくつかの分野では10代の天才児の活躍を見ることができないのか。この根本理由は10代のうちでは、能力開発に十分な学習時間を累積することができないからだ。ときにはその理由は、単に体の大きさだったりする。5歳の子どもは幼児用のピアノやバイオリンで練習することはできるが、トロンボーンやダブルベースは大きすぎて演奏ができない。だから世界クラスのトロンボーンやダブルベースの奏者になるには、年齢をより重ねる必要がある。
その他の分野の場合、10年の訓練でも十分ではないからだ。ここにもノーベル賞効果がみられる。数学や科学を5歳で学びはじめても、今必要とされている知識の習得だけでも少なくとも20年かかるとみられている。18歳の素粒子物理学者にお目にかかることはない。
18歳までに学ぶべき量があまりにも多いから?
だから、18歳のビジネス界での天才にお目にかかることはないのだろうか。18歳までに習得すべき知識量が、あまりにも多いという単なる学ぶべき量の問題なのだろうか。こうした説明は、説得力のあるものとは必ずしも思えない。
そこで、科学者として給与を受け取る従業員の場合は例外とし、ここでは経営幹部に話を絞った例をみてみよう。たしかに経営で成功するために必要な技術と知識を身につけるのは大変だ。
しかし一方、きさくな経営幹部だったら、会社を経営するには普通そんなに切れる頭は必要ないと本音を言ってくれるだろう。事業部の戦略立案は大変な仕事だ。しかし、たとえばフェルマーの最終定理の証明──証明するのに357年かかった──のような仕事との比較で考えればたいして難しいわけではない。
ビジネスにおける早期教育
ビジネススキルの訓練については、単に通常早く始めないからというところにむしろ答えがあるかもしれない。実業家が早期の能力開発に関する議論を耳にしたとしても、ビジネス界にそのような実例は一切ないと思うだろう。
たとえば、水泳、芸術、数学の分野で行われているような、若者対象の徹底的な能力向上プログラムは、少なくともビジネス界では行われていない。となると質問は、そうしたことはビジネスの世界でそもそも可能かという質問になる。それが望ましいことかどうかしばらくは横において、ビジネスの知識とスキル開発を若者に行うことがそもそも可能か、また有効かについて検討したい。
答えは明らかにイエスだ。しかし、能力開発は初歩から始めなければならない。だから、5歳の子どもに資本資産価格モデルやFDA(食品医薬品局)の役割の実態など教えようとは思ってはならない。
しかし、特定業界に関する事実など事業分野の基本知識から教えはじめることはできるだろう。もちろん、こうしたことは最近まで何百年にもわたって日常的に行われてきた。子どもは10歳になる前から家業について学びはじめていた。こうした見習い制度で培われた知恵を価値あるものと評価することができる。
この制度のおかげで、早期能力開発の原則を守りながら、すぐれた技術をもつ指導者の下で幼少のころから特定の分野に没頭して学ぶことができる。より一般的分野の知識を除けば、かなり若い人でも特定のビジネススキルについては教え込むこともできるだろう。数学の初等コースでファイナンスの基本概念を教えるのは最適だ。
可能かもしれないが本当にそれでいいのか
世界的に著名なコンサルタントであるラム・チャランが企業金融に対し、深い興味を抱くようになったのは、8歳で家業の靴屋の仕事を始めたのがきっかけだったと語っている。近年ではもっとも尊敬されている経営者の一人であるハネウェルの元CEOラリー・ボシディも、またマサチューセッツ州ピッツフィールドにある実家の靴屋での子ども時代の同様の経験を語るだろう。
かなり幼い子どもでも、確率や統計がビジネスでどんな意味をもつのか学習することはできる。行動ファイナンスの学問分野が明らかにしたように、こうした知識を身につけることで経済的意思決定が可能になり、多くの人が陥りやすい非合理的な意思決定を回避することができる。
若手新入社員に対する企業側の最大の不満は、彼らが書いたり、話したりすることが下手だという点だ。ビジネスという観点から若者を鍛錬し、そうしたスキルの向上を促すことはできる。初級段階からであれば、達人となるために特定の事業分野で何年にもわたり日に数時間、能力開発に着手することも可能であるように思える。
しかし、可能かもしれないが、本当にそれでいいのだろうか。究極の鍛錬や早期の能力開発の原則を用いて、小さなJ・P・モルガンやアンドリュー・カーネギーをつくり、彼らが選挙権をもつころには企業経営の大物に仕上げるべきなのだろうか。
調査研究結果はこうしたことができうると示しているし、少なくともかなり近づくことができることを示している。しかし、大部分の人はこうした考え方を直感的に拒絶している。なぜだろう。その直感の中身は検討に値する。
子どもにとって残酷
19世紀、仕事の性質が大きく変わり、先進国では10歳前後の子どもに特定の職業に就くためのトレーニングを開始することはなくなった。当時、大部分のアメリカ人は中学卒業程度(8年間)の学歴しかなかった。農園で働くには十分な学力だったし、またほとんどの人が農園で働いていた。
しかし、産業革命によって農業がより効率的になり、より少ない人手で間に合うようになると、工場の数が急速に増え多くの労働者が必要となり、中卒程度の学力では不十分となってきた。
20世紀初頭、ハイスクールブームが沸き起こり、全米では子どもはみな8年間ではなく12年間の教育を受けるべきだという決定が次々と行われていった。当初のハイスクールの教育は職業訓練として行われていたので、数学の基礎や科学技術、産業経済を発展させる人材教育に必要な知識や技術を授けた。
のちに国が豊かになるとともに、ハイスクールのカリキュラムは職業訓練の枠を超えて一般教養全般を含むものへと拡大していった。そしてより多くの生徒が大学に進学し、その大部分が一般教養課程(リベラルアーツ)を専攻した。それは20世紀の先進国の繁栄の印となった。十分でかつよく考えられた高等教育をほとんど誰もが手にすることができるようになったことを、多くの人はもっとも誇らしい功績の一つと考えているだろう。
日々の仕事や生活ではホメロスやシェイクスピアを知ることも、日本の歴史を知ることも必要ないかもしれない。同様に三角関数や化学も知る必要がないかもしれない。しかし、こうした事柄を知ることで人生がより豊かになり、より充実した人生を送ることが可能となる。
そうした観点から眺めると、子どもに幅広い教育の機会を提供することを犠牲にしてまで毎日何時間も訓練し、21歳になるまでに一流の経営者に育成しようとすることは子どもにとって残酷なように思われる。実際おそらく残酷だろう。しかし、こう考える際、次のいくつかの点を頭の中に置いておく必要がある。
輝かしい業績の陰で
第一に、今の社会ではビジネス以外の分野で子どもが早期教育を受けることは、社会的にみてほとんど問題はない。アール・ウッズが生後18か月のころから息子のタイガーに熱狂的にゴルフの訓練を施しても、彼のことを悪い父親だと考えたりする人は誰もいないだろう。むしろ逆にアールは素晴らしい父親である。息子のタイガーも父親にあこがれていた。
その他の分野でも若き達人たちが、自分自身で選んだ分野に注力するため他の幅広い教育を犠牲にしたとしても誰も気にはとめないだろう。レブロン・ジェームズが高校から直接プロのバスケットボールチームに転じたとき、一部には不平の声もあったがジェームズがプロ選手として大金持ちになり、人気選手となるやそうした不満があったことも今は忘れ去られている。
チェスの世界で輝かしい成功をおさめたポルガー三姉妹は義務教育課程を修了するためにもチェス以外の科目を学んだが、生涯学校に通うことはなかった。しかし、ハンガリーの国民は彼女たちを国民的ヒーローとして称賛している。
こうした例に限らず、他の若者の高い業績を見るにつけ、達成された輝かしい業績の陰で失われたものがすっかり覆い隠されてしまっているようにみえる。仮に、同様の手法がビジネスの早期学習で応用されたとしたら、類似の成果が生じ、弊害も含め同じ結果がもたらされるのだろうか。
第二に、5歳の子どもを将来の銀行の経営者や繊維工場の工場長や小売業の戦略立案者に意図的に育てることが私たちの社会では行われなくても、他の国には躊躇(ちゅうちょ)しないところがあるかもしれない。急速に経済成長を遂げるアジア、アフリカ、ラテンアメリカではこうした教育の研究成果を自分たち自身の観点からみるだろうし、そうした見方が我々とまったく同じだとみなすことはできない。
もしこうした国の政府や家庭が、子どもを21歳で若き天才実業家に育て、その後も能力を高めつづけていくような経営者を育てることに力を注ぐことにでもなれば、我々もそうした現実に対応し、ビジネスにおける早期教育のあり方を考え直すかもしれない。
<本稿は『新版 究極の鍛錬』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock
【著者】
ジョフ・コルヴァン(Geoff Colvin)
フォーチュン誌上級編集長
【訳者】
米田 隆(よねだ・たかし)
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