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お金や食糧が本当は世界で余っているのに「足りない」と問題視される矛盾の正体

 これまでに発行された経済学の教科書の多くには、「資源の希少性こそが経済の基本的な問題である」と書かれています。

 スペイン・セビリア大学応用経済学教授であるフアン・トーレス・ロペス氏に言わせると、これは嘘。ロペス氏の著書『Econofakes エコノフェイクス トーレス教授の経済教室』より、お届けします。

『Econofakes エコノフェイクス トーレス教授の経済教室』(サンマーク出版)Junan Torres López
『Econofakes エコノフェイクス トーレス教授の経済教室』

経済の根本的な問題は足りないこと?

 このウソの出どころは、ライオネル・ロビンズが1932年に発表した『経済学の本質と意義』(京都大学学術出版会刊)だ。それは経済学者の間で最も広まった有名な経済学の定義であり、経済学を「さまざまな用途を持つ希少性のある資源の最も有効な利用について研究する科学」としている。

 知識の一分野としての経済学が専念すべきことは「不足が起こる状況で下される意思決定の分析である」という考え方自体は、この章で見ていくように人々に大きな結果を及ぼすとはいえ、間違っていない。しかし、経済活動の基本となる問題が希少性であると断定することは、現実や常識に反するだけでなく、ウソである。

どこがウソなのか?

 これがウソであることは、次の2つの状況から明らかだろう。

 1つは、あらゆる資源が欠乏している、またはあらゆる資源はすべての人間にとって希少だという事実など存在しないこと。

 もう1つは、希少性の問題よりも優先しなくてはならない、人間の生活や経済にとってより重要で決定的な問題が他にあることだ。

希少性は経済の問題ではない

 希少性については、抽象的な概念として語ることはできない。私たちが利用できる資源が有限であることを確認するには、次の4つの本質的な問いが同時になされるべきだからだ。
すなわち、

・希少な資源とは何か?
・その用途は何か? 
・誰のためのものか? 
・そして、それはなぜか? 

 この4つだ。

 これらを問うことなく抽象的に希少性を語ることがどれだけ無意味かがわかる例を挙げよう。たとえば、経済にとって労働力は重要な資源である。私たちの需要を満たしてくれるどんな財もサービスも、量の差こそあれ、さまざまな種類の労働力のおかげで存在する。

 だからといって、労働力が不足していると言う人はいるだろうか? 世界中にあふれる失業者の数を考えると、むしろ余っているというべきではないだろうか? 最も必要とされている労働力が、私たちの周りでは絶えずこんなに余っているのに、どうして経済の根本的な問題が資源の不足だなどと言えるのだろうか?

 のちにまた何度か触れるが、従来の経済学は基本的なところで間違っている。存在する量が有限であるということと、不足していることは違う。とてつもなく少量であっても、その量はゼロではない。

 希少性が経済の根本的な問題ではないことがわかる、もう1つの例を挙げよう。

 特別な注意を払って利用しなくてはならないほど希少な資源とは、はたしてなんだろう? もちろん、さまざまな形で自然が提供してくれる資源、あるいはあらゆる経済活動を行ううえで必要なエネルギーがそれに当てはまるだろう。では、そうした資源の真の不足に、経済はどう対処しているのだろうか?

 答えは「対処していない」だ。よく使われる経済指標でも、経済政策の理論や提案を検討するためのモデルでも、経済分析の概念的枠組みでも、希少な天然資源の消費量やその実質コスト、それを使うのに必要なエネルギー消費、そしてそれがどんな結果をもたらすかなどについては触れられていない。

 資源が希少なために人類が経済問題に直面しているという主張がウソであることを証明する例は他にもたくさん挙げることができるが、ここではあと2つだけ紹介しておこう。

 世界の食糧問題を扱う国連食糧農業機関(FAO)によると、地球上の飢餓は2014年以来増えつづけているという。しかし近年の作物の収穫量は史上最大だ。それでも世界の飢餓は、資源の不足が原因なのだろうか? あらゆる統計が、世界中の人々に行きわたるのに十分な量の作物が生産されていることを示しているのに? しかも毎年10億トン以上の食料が廃棄されているというのに?

 また、地球上の全人類が生きていくのに必要な基本的な財やサービスを供給するだけのお金が各国政府にはない、ともよく言われる。これもウソだ。

 国連のミレニアム開発目標は、世界中で貧困を撲滅し、初等教育を提供し、ジェンダー平等を達成し、支援が及ばないことによる母子の死亡率を下げ、HIV/エイズ対策を徹底し、環境破壊を抑制することを掲げている。これらの活動を支援するのに必要な資金は、2030年までは毎年約6兆ユーロとされている。これらの問題がいまだに存在し、何百万人もの命を奪っているというのに、その対策のための資金が多すぎるためにそのお金が十分にないなどといえるのだろうか?

 この金額は、毎年世界中で行われている金融取引100ユーロ当たり約4セント[1セントは1ユーロの100分の1]というごくわずかな額のレートを徴収すれば集まる額なのだ。

 先に指摘した労働資源のように、私たちが生きていくのに必要な資源のすべてが不足しているというわけではない(その量が限られているものはあるが)。そうではなく、私たちの周りの現実をみると、一部の人々にとっては不足している、あるいはまったく存在しないものでも、他の人々の手元には余るほどあることが一目瞭然だ。以下のデータを見れば、それは明らかだろう。

・100万ドル以上所有する世界最富裕層上位1パーセントの資産合計は、地球上のすべての富の44パーセントを占める。一方、地球上の56・6パーセントの人々の資産合計は、世界の富の2パーセントにも満たない。

・この1パーセントの大富豪たちの資産は、1982年には世界の富の増加分の15・73パーセントを手に入れたが、その割合は2016年には20・44パーセントとなった。一方、世界で最も貧しい50パーセントの人々は、1982年には世界の富の増加分の8・46パーセントを手に入れ、その割合は2016年には9・66パーセントになった。

・世界トップの大富豪10人が所有するさまざまな資産の合計8010億ドルは、ほとんどの国家が持つ財やサービスの合計額より大きい。

・富の集中がエスカレートし、世界の富の50パーセントを2009年には380人で所有していたが、その数は2019年には26人だった。

・人々が一丸となって協力し助け合うことが最も求められていた新型コロナウイルスのパンデミック下において、2020年3月から2021年2月までに、10億ドル以上を持つ地球上の大富豪全体が増やした資産を合計すると3兆9000億ドルになるが、その一方で労働者全体が失った額は3兆7000億ドルだった。

本当の問題は分配にある

 どんな用途に使われるかを前もって定義したり考えたりすることなしに、何が不足しているとか、何が過剰にあるなどと言うことはできない。希少性の問題は、資源の用途やその分配方法に関係なく必ず起こるわけではない。

 したがって、「経済の根本的な問題は不足への対処だ」ということにはならない。そうではなく、経済の基本的な問題とは、利用可能な資源で何をするのか、どのように分配するのかを決めることなのである。

そのウソがどんな結果をもたらすか?

 人間の経済活動や生活における解決すべき基本的な問題が「希少性」だと断言することで、おもに3つの結果がもたらされる。

1つ目は、この問題より先に考えるべき他の問題を覆いかくしてしまうことだ。それらの問題を適切に考慮すれば、希少性の問題にも対処できるようになる。

 多くの富裕国と同じく、スペインには国民一人一人に行きわたるほど十分な、あり余るほどの数の住宅が存在する。ところが、家を持たず他人や親せきの家、あるいは路上で暮らさなくてはならない人々や家族がたくさんいる。その原因は、資源の不足にあるのだろうか? それとも、社会が前もって利用できる資源をどうするか、つまり他の分配方法があるのではないか、ということを検討しなかったからだろうか?

 もし別の分配方法が検討されていたら、スペインは住宅不足に陥らなかっただろう。あるいは、誰も住むところがないとはならなかっただろうと言ったほうがいいかもしれない。

このウソがもたらす2つ目の結果は、「資源がどう分配されているか?」という重要な問題を議論する機会が失われることだ。

 先に希少性を生み出す分配方法を許してしまっているからこそ、資源が足りないことになってしまう。したがって、そこから検討できる選択肢は、既存の分配方法にもとづいた限られたものでしかない。ロビンズの言う「代替的用途」とは、すでに確立されている用途に当てはまる限定されたものでしかないのだ。

 そのため、経済活動の中に資源の希少性の問題が存在すると決めつけることは、実際にそれが希少な資源であるかどうかにかかわらず、その使用や管理の目的を問題にすることを避けている時点で、既存の社会秩序を認めてしまっていることになる。

 実際、ロビンズの定義を多かれ少なかれ文字通りに受け止めている主流の経済学者たちの考えは、当然、次のようなものになる。

 すなわち、経済学に求められていることは、分配の問題や資源の用途とは関係なく、ただ単に最も効率的に、つまり最も安く手に入れられる方法を提案することである。さもなければ、科学的でない価値判断を下す必要が生じてしまうというわけだ。

 しかし、そこから、このウソがもたらすであろう3つ目の興味深い結果を推測できる。

 希少性の法則を唱える経済学者たちは、自分たちは中立的な立場にあるので価値判断はしないと言う。つまり、資源のさまざまな用途を選択する際に、背後に潜んでいる倫理的問題については言及しないのだ。しかし、事前の価値判断なしに何が最適で何が最適でないかを決定することなどできるのだろうか? 

 資源を最も安く手に入れられることが社会にとって最も良いとするのは、価値判断ではないと言うのだろうか? 何が適切かという倫理的判断を事前に行うことなしに資源の使い方をいくつかのオプションから選択するなど可能なのだろうか?

そもそもの問題を見ない経済学者

 これらの経済学者は、モリエールの喜劇に登場する、自分が散文で話していることに気づいていないブルジョア紳士と同じだ[モリエールの『町人貴族』に、貴族にあこがれる成り上がり商人が、哲学者から人間の言葉には韻文と散文があると聞かされ、何も考えず自分が生まれてからずっと使っていたのが実は散文だったのかと気づく喜劇がある]。

 彼らは、希少性は経済活動における基本的な問題で、経済学は価値判断をせずにそれを解決すると主張する。しかし、彼ら自身がすでに、たとえば公平性や環境を尊重した利用方法よりも最も安く資源を利用するほうが望ましいと、あらかじめ価値判断をしているのではないだろうか。

 要するに、前述した、「何が、誰にとって、何のために、なぜ不足するのか」という、前もって検討されるべき本質的な問いを論じることなしに、知識分野としての経済学が希少性の法則にもとづいていくつかの選択肢から最適で最も安くすむものを選ぶのを受け入れることは、そのための資源の利用目的、分配、使い方や管理方法を承認することを意味する。ひとたびそれが認められれば、社会から問題視されることもなくなるのである。

 その結果、経済学は、「現状を維持させる」ためのツールと化し、それが正当なイデオロギーとみなされるようになる。そうなると、富裕層や権力者たちに利益をもたらす政策が永遠に続き、他の代替的な政策はいっさい進められない世の中になってしまうのだ。

<本稿は『Econofakes エコノフェイクス トーレス教授の経済教室』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>

(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock


【著者】
フアン・トーレス・ロペス(Junan Torres López)
セビリア大学応用経済学教授

【訳者】
村松 花(むらまつ・はな)

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