「上方落語」と「江戸落語」は何が違うか、ご存じですか
大物政治家や経営者、ビジネスエリートに親しまれている日本の伝統芸能である落語は「古典落語」と「新作落語」に分かれます(古典落語と新作落語の根本的な違いを知ってますか/4月17日配信)が、「上方落語(かみがたらくご)」と「江戸落語(えどらくご)」という分け方もあります。
『ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語』から、お届けします。
「上方」とはどこ?
まず「上方落語」と「江戸落語」の最大の違いは、「発祥した場所」です。
「上方落語」とは、「上方」、つまり商人の町として繁栄していた大阪や京都などで生まれた落語を指します。
江戸時代まで天皇は京都に住んでいたため、京都を中心とする関西を「上方」と呼んでいました。
もともと関西地方で行われる落語は、「大阪落語」「京都落語」などと称されてきましたが、1932年に発行された『上方』という雑誌で初めて「上方落語」という語が使われ、以降その呼び名が定着しています。
「上方落語」は今でいう大道芸のように、野外で演じられることが多かったため、通行人の歩みを止めてきかせる必要がありました。そのため、三味線や太鼓などの楽器演奏を取り入れるなど、派手でにぎやかな演出が特徴的です。
「上方落語」に対して、「江戸落語」とは、文字通り江戸でできた落語をいいます。江戸といえば幕府のお膝元ですから、100万人程度の人口の半分ぐらいが侍でした。「江戸落語」は彼らの間で「お座敷芸」として発展を遂げていきます。
高座で使用する道具にも、違いがあります。実は「上方落語」だけでしか使われない小道具、というのがあるのです。
「見台(けんだい)」という落語家の前に置く小さな机(布団や湯船を表現する)や音が鳴る道具「小拍子」(効果音を自分で出す)、落語家のひざを隠すついたて「膝隠し」などです。
大阪の落語は、一度なくなった!?
順序でいうと、最初に「上方落語」が元禄時代に起こり、それが江戸に伝わって「江戸落語」が爆発的に流行した、という流れです。それからも、落語の流派は分かれたり集合したりを繰り返しますが、「上方落語」は勢いを急速に失っていきました。
そこに追い討ちをかけるように、「上方落語」に最大のピンチが訪れます。戦争です。
戦時下では、落語や漫才など大衆の笑いに関する文化は、国から厳しく統制されました。
たとえば1937年には「興行取締ニ関スル件」というお触れが出されています。このお触れにより、各種芸能団体は警察の指導を受け、演目や活動などを自粛せざるをえませんでした。
そして、1945年。第二次世界大戦が終わると、「上方落語」は、もう虫の息でした。300年もの歴史を誇る〝伝統笑芸〟でしたが、落語家の数は激減。戦前、いくつもあった寄席は、一つ残らずなくなってしまいます。
それから大阪に寄席ができるまで、約60年もの歳月が必要とされました。
2006年になって、大阪府大阪市北区天神橋にある神社の大阪天満宮から敷地が無償で提供されたり、一般から広く寄付が集まったりして、「上方落語」をライブで楽しめる寄席小屋「天満天神繁昌亭」がオープンし大阪の寄席が復活したのです。
上方落語を復興させた「桂米朝」
上方落語の復興を支えたのは、「四天王」と称される偉大な落語家たちでした。
笑福亭松鶴(しょうふくていしょかく、六代目)、桂米朝(かつらべいちょう、三代目)桂春團治(かつらはるだんじ、三代目)、桂文枝(五代目)など、各師匠たちです。
中でも、目覚ましい功績を遺したのは「上方落語の至宝」と称された桂米朝師匠です。
彼は第二次世界大戦後、引退した落語家を訪ね歩き、聞き取り調査を行い、『上方落語ノート』という本を出版しました。それだけではありません。京都の祇園に度々通い、芸妓(げいぎ)の仕草や踊りを習得。「狂言」や「戯歌(ざれうた)」なども身につけ、「上方落語」を、「上方諸芸」を凝縮した文化として復興させようと試みたのです。
つまり、大きな流れで見ると、順調に発展を遂げてきたのが「江戸落語」。波乱万丈を乗り越えてきたのが「上方落語」だといえます。
このように全く異質なものに見える「江戸」と「上方」ですが、落語家が行き来をして、相互に刺激を与え合うこともありました。
たとえば、関東大震災(1923年)の直後などです。
東京近辺で職を失った落語家が、大阪によく出稼ぎをしていたのですが、その際に大阪から東京に〝持ち帰った〟文化の一つが「出囃子(でばやし)」(落語家が登場するときの音楽)です。
それまで「江戸落語」では、出囃子のような音楽は一切ありませんでした。ところが「上方落語」の影響を受けて、「三味線や太鼓、鐘や笛などのにぎやかな音楽とともに入場する」というスタイルが、東京でも急速に広まったのです。
最後に上方落語と江戸落語の違いをまとめてみました。
<江戸落語>
・発祥は江戸
・侍の間で「お座敷芸」として発展する
・上方落語が江戸に伝わった
・高座の上に小机は置かない
<上方落語>
・発祥は大阪や江戸
・もともとは大道芸のように野外で演じられていた
・そのため三味線や太鼓などが鳴りにぎやか
・高座の上に見台(けんだい)という小机を置くこともある
<本稿は『ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shuttestock
【著者】
立川談慶(たてかわ・だんけい)