見出し画像

目の見えない精神科医が自分を「視覚障がい者」ではなく「視覚想像者」と言う理由

「目が見えない人の世界」を想像したことはありますか?

 視力を失った全盲の状態で心の悩みを抱えている患者さんに向き合っている精神科医の福場将太さんは、それを「カラフルな世界」と表現します。福場さんの初めての著書『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』よりお届けします。

『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』 サンマーク出版
『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』

私は「視覚障がい者」ではなく「視覚想像者」

 人は情報のおよそ8割を「視覚」から得ていると言われています。

 つまり、「視覚」とはいわば情報収集のメイン機能とも言えるわけです。そんなこともあって、私たち目が見えない人間は「何も分かっていない」「何も見えていない」と思われる場面が少なからずあります。

 しかし、当事者から言わせてもらえば、それはとんでもない見くびりです。

 みなさんが想像するよりもずっと、目が見えない人が見ている世界にはたくさんの情報が存在しています。

 みなさんは、「目が見えない人の視界」と聞くと、どんな世界をイメージするでしょうか。もしかすると、電源を切ったテレビのように、真っ暗なスクリーンを想像する人が多いかもしれません。

 それがそうでもないんです。

 意外とカラフルな世界を生きています。

 というのも、私たちはいつでも視覚以外の感覚を総動員して、目の前の景色や出来事を「想像」しているからです。

 例えば、誰かと会話している時、相手の姿は見えていないけれど、脳内では頭からつま先までその姿を事細かに想像しています。

 足音や語調には実に豊かにその人の心情や性格が表れます。

 歩幅や足取りの軽快さからアクティブな人なのかな? と想像したり、快活な語調から体育会系の印象を受けたなら、その印象に合った外見がイメージの中で作り上げられたりします。

世界を想像・創造している

 それこそ、短髪で、がっしりしていて、眼鏡を掛けていて……と、頭の中で似顔絵を描くように、外見を作り上げていくのです。これは、次にその方に会った時にも同じイメージが視界に登場します。

 逆に、再びお会いした際に会話の中で「実は出不精なんです」と言われるなど、その方に関する新しい情報が更新されると、「体育会系ではないのかも」と、イメージの中での外見が描き替えられる柔軟さもあります。

 そういう意味で、目が見えない人間を「視覚障がい者」という言葉で表現すること自体に私は違和感を覚えます。

 決して視覚がない暗闇を生きているのではなく、自分で描いた視覚世界を生きている人たち。

 私の自意識では、「視覚障がい者」よりも、「視覚想像者」。

 そのほうがしっくり来ます。

 私のような中途失明ではなく、生まれながらに目が見えない人たちは世界を想像するどころか創造もして生きているわけです。

 イマジネーションの「想像」。

 そして、クリエーションとしての「創造」。

 私たち、目が見えない人間はそうやって想像し、世界を創造している。

 目が見えている人たちと同じく、カラフルな世界を生きていることをぜひお見知りおきください。

<本稿は『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>

(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by shutterstock


【著者】
福場将太(ふくば・しょうた)
1980年広島県呉市生まれ。医療法人風のすずらん会 美唄すずらんクリニック副院長。広島大学附属高等学校卒業後、東京医科大学に進学。在学中に、難病指定疾患「網膜色素変性症」を診断され、視力が低下する葛藤の中で医師免許を取得。2006年、現在の「江別すずらん病院」(北海道江別市)の前身である「美唄希望ヶ丘病院」に精神科医として着任。32歳で完全に失明するが、それから10年以上経過した現在も、患者の顔が見えない状態で精神科医として従事。支援する側と支援される側、両方の視点から得た知見を元に、心病む人たちと向き合っている。また2018年からは自らの視覚障がいを開示し、「視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる」の幹事、「公益社団法人 NEXTVISION」の理事として、目を病んだ人たちのメンタルケアについても活動中。ライフワークは音楽と文芸の創作。