車椅子モデル・葦原海さん(26)が「1つの出来事だけで相手を判断してはいけない」と思った理由
16歳の時に事故で両足を失い、車椅子で生活するモデル・インフルエンサーの「みゅうちゃん」こと葦原海さん(26)が、ミラノコレクションのランウェイを歩くために初めてヨーロッパへ訪れたときのこと。
イタリアの階段しかない地下鉄で車椅子を持ち上げてもらおうと、通りがかった男性に声をかけてみて断られたことで、悟ったことがありました。著書『私はないものを数えない。』より、お届けします。
イタリア、階段しかない地下鉄でのこと
ミラノコレクションはお仕事だけど、せっかくはるばるやってきた初のヨーロッパ。私は観光も楽しんだ。
ヴェネチア、フィレンツェ、ミラノ、ローマ。
配信用の動画も撮りたかったし、めいっぱい充実させたくて、あれこれびっちりスケジュールを組んでいた。もともと国内でも、私はどこかへ出かけるとき、予定をみっちり詰め込むほう。
いよいよコレクションも終わり、旅の終盤。
私はローマ在住の日本人女性に手伝ってもらい、帰国のためのPCR検査を受けに行こうとしていた。
検査会場へは、地下鉄で。駅のホームから地上までは上りエスカレーターだったから、後ろから同行者に支えてもらいながら、斜めに車椅子で乗って無事に到着。
問題は帰りで、地上から駅のホームまでは、2つある階段を下りて行かなくちゃいけない。エレベーターがない駅で、ありがちなことにエスカレーターも上り専用だったから。
「階段、下りるしかないね」
街なかの男性に手伝ってもらおうと相談し、同行の彼女に声をかけてもらった。たまたま通りかかった男性を呼び止める。たぶん地元のイタリア人。メガネをかけた、中年の男の人だ。
「今、駅のホームまで下りたいけど、階段しかないから一緒に車椅子を持ち上げてもらえませんか?」
会話はイタリア語なのでさっぱりわからない。ペラペラペラッと話して、男の人はさっさと地下鉄駅に入っていった。
通訳してもらったら、こういうこと。
「自分はこれから仕事に行くところで、時間がないから手伝えない。でも、駅には人がたくさんいるから、『もし手伝えそうな人がいたら上に行ってあげて』って、声かけだけはしてくるよ」
私はこの言葉を聞いて──すっきりした! うれしかった!
してほしいこと・できること・できないこと
車椅子を持ち上げるのは、みんなが思うほど、難しくない。でも、「落としたらどうしよう」と心配な人もいると思う。
それに荷物ではないから、「持ち上げて、下ろして終わり」とは限らない。アクシデントがあるかもしれないし、さらに手助けがいるかもしれない。
何が言いたいかというと、結構、時間がかかるということ。
車椅子ユーザーの自分が「してほしいこと」を言うのも大事だけれど、言われた人にも、その人の予定や都合があるよね。
普段なら「いいよ、運んであげる!」と言ってくれる人だって、「絶対に遅刻できない大事な会議にギリギリだ」というときは無理だと思う。
元気そうに見えて、実はどこか怪我をしているかもしれないし。
手伝ってもらえないことは、全然、普通にあるはず。
それを「冷たい」と決めつけるのって、ちょっとへんじゃないかな。
車椅子ユーザーも、そうでない人も、みんなそれぞれ事情がある。
イタリアの男の人は「できない」と言うだけじゃなく、仕事中だと事情を説明してくれた。他の人に声をかけると、「自分のできる範囲」を示してくれた。
だからこそ私はすごく納得してすっきりしたし、他の人に声をかけてくれるというやさしさに、「うれしい、ありがとう」と素直に思えた。
自分がしてほしいこと。
相手ができることと、できないこと。
それをありのままに、ちゃんと表すと、いいコミュニケーションが図れる。そう実感した出来事だった。
障がい者を助けない人は「冷たい人」?
「障がいのある方たちを見たら、助けないといけない」
健常者の頃の私は、そう思ってた。
もう少し正確に言うと、「もしも助けなかったら、まわりの人は私のことを、『なんて冷たい人間だ』と思うだろう」と人の目を気にしていた。
困っている障がい者を手伝わないなんて、「絶対によくない」から、世間に非難されるから、絶対に助けないとダメだ、と。
だけど自分が車椅子ユーザーの立ち位置になったときに、「何か違うな」という気がしてきた。
私が何かを「手伝ってほしい」と言ったとして、それを100%やってもらって当たり前だというのは、違和感がある。
だって、相手にも都合があるし、できないこともあるから。
「ちょっと今は無理」と断られても、「そうなんですね」と思う。
逆に、「何がなんでも手伝う! 頼まれたらなんだって断らない!」というのは、障がい者の差別とまでは言わないけれど、特別扱いしすぎじゃないかな。
これは家の中でも同じだと思う。
車椅子だと高いところに手が届かないから、実家にいたときは親や妹に「あれ、取って」と頼んでいたけど、親も妹も自分の都合がある。
「今、手が離せないからあとでね」と断られるときも普通にあった。
頼んだことを、やってもらえるか、やってもらえないか。
それはそのときの状況でも、相手の事情によっても違う。
仮の話だけど、私が外で何かを落として、通りすがりの人に「すみません、拾ってもらえますか?」と頼んだとするよね。
その人が、無言で通り過ぎても、私は「冷たい! 差別された!」とムッとしたりしない。
「ああ、今は忙しいんだな」とあっさり思って、別の人に声をかけて終了!
だって、スルーした人だって、別のタイミングで声をかけたら「いいですよ」と拾ってくれるかもしれないから。
一つの出来事で「冷たい」とか「やさしくない」と決めつけない。
「相手の立場がどうだったのか?」と考えるって大事だなと、ローマの地下鉄駅の前で改めて感じた。
これって、車椅子ユーザーや障がいのある人だけではなく、みんなに言えることだよね。
<本稿は『私はないものを数えない。』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
【著者】
葦原海(あしはら・みゅう)
モデル・SNS総フォロワー数70万人のインフルエンサー・観光アドバイザー
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