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「居心地のいい場所」を選ぶのをやめた僕が掴んだ夢

中学、高校、大学で学んだはずなのに、多くの日本人が話せないのが英語。帰国子女や英語圏への留学・駐在経験を持っているような英語が堪能な人を、正直羨ましいと思っている人は少なくないでしょう。

国境なき医師団 日本の事務局長である村田慎二郎さん(47歳)も英語にコンプレックスを持っていた1人。大学卒業後、就職浪人を経て外資系IT企業に勤めながらも、2005年に営業マンから国境なき医師団に転じる前は、英語が「まったく」できないという状態でした。そこから猛勉強で英語学校へ通い2カ月で英語を克服。晴れて国境なき医師団へと入団しました。

そんな村田さんが2019年に42歳でハーバード・ケネディスクールへ留学した際に教授から教わったのが、「居心地のいいゾーンに戻るな」という教え。著書『「国境なき医師団」の僕が世界一過酷な場所で見つけた命の次に大事なこと』より、一部抜粋、再構成してお届けします

『「国境なき医師団」の僕が世界一過酷な場所で見つけた命の次に大事なこと』(サンマーク出版) 村田慎二郎
『「国境なき医師団」の僕が世界一過酷な場所で見つけた命の次に大事なこと』


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自分のレベルを超えるクラスに入って──

「これは、なにかの間違いじゃないの?」

 ハーバード・ケネディスクールでのサマースクール。数学のクラスの初日。クラスメートの顔ぶれにおどろかされた。会社や政府系組織の財務の責任者ばかり。

 やめておけばいいのに、事前のレベル分けのテストをこっそり勉強してから受けたのが悪かった。

自分の実力よりも、あきらかにレベルの高いクラスに僕は入れられてしまったのだ。

 初日の授業から、すでに自分のもっている数学の知識のマックスを超えていた。

 おまけに英語で数学の授業を受けるのははじめて。教授が数式を説明するとき、なにを言っているのか、正直いって半分もわからなかった。

 案の定、宿題はかなり時間をかけなければいけなかった。数学ができる人からすればすぐに解ける問題も、練習問題から一つひとつ、僕は理解しなければいけない。

 周りの学生は授業のあと飲みに行き、ネットワークづくりをしていたが、僕はそれどころではなかった。

 授業が進むにつれ、他のクラスメートとの差を感じる毎日。

 そもそも僕は高校2年生のときに数学が苦手になったので、文系になった過去をもつ。このままではもたない。僕はついに、恥をしのんで教授にもう少しやさしいクラスに変更してもらうよう、お願いをしに行った。

自分が快適に感じるレベルに戻ってどうするんだ

「居心地のいいゾーンに戻るな」

 そのとき教授に言われたのが、この言葉だった。

「君は、ハーバードに挑戦するためにここに来たんだ。自分が快適に感じるレベルに戻ってどうするんだ」

 なんだか映画のワンシーンみたいに感じて、ちょっとだけ感動し、クラス変更をやめたのがマズかった。結局、毎晩夜中まで宿題をするハメに。

 それでもなんとか最終テストの結果、ぎりぎり及第点は越えることができた。

 その後も続いた1年間の留学生活。

 高校のときから大人になってもずっと勉強にコンプレックスがあった僕が、40歳を過ぎてからハーバードの大学院で学ぶという暴挙。宿題はリーディングが多すぎて、、もうダメかと思ったことが何度もあった。

でも不思議と、「知のディズニーランド」に通っているようで、毎日が充実していた。大学受験のようにやらされている感がなく、自分が問題意識をもつ分野で夢の実現のために学びたいと望んだ授業ばかりだったからだ。

 あのときの教授の「居心地のいいゾーンに戻るな」という言葉。

 いまでも、僕に刺さっている。

 僕にとって一番居心地のいいゾーンは、じつはなにもしなくていい休日を過ごしているときだ。

 国境なき医師団日本の事務局長の仕事は、いつもやることがあり、そんな日は滅多にない。だが年に数回だけ家族と過ごすそのときは、究極に居心地がいい。時間がゆっくりと流れ、ぽかぽかあたたかい気持ちになれる。

でもおそらく、毎日がそんな日だったら、自分の夢には絶対に近づけないだろう。

リスクがある方を選びつづけたからこそ

 2011年、イラク、ナジャフにある国境なき医師団の2階建てオフィスのテラス。ひとりで考えごとをしたいときに、よく過ごしたお気に入りの場所だ。

 そこで僕は考えごとをしていた──。

 まさか自分の人生で、「イラクでプロジェクトをオープンしてほしい」と言われるとは、想像していなかった。正直オファーをもらったとき、迷いがあった。

 26歳で会社を辞め、国境なき医師団に参加するために英語を勉強しながらフリーターをしていたちょうどその年。

イラクで日本人3人が人質にされる事件が起こった。

 日本の社会は、「自己責任」という名の下に、彼らに対してとても厳しかった。ネットや一部のメディアから、家族に対してまでバッシングもあった。

 そんなときに国境なき医師団に参加したいと考えていた僕は、応募する際、3つだけ行きたくない国を事務局に伝えていた。ソマリア、北朝鮮、そしてイラク──。行ってしまったら、戻ってこられないように思ったからだ。

 イラク戦争後、そんな僕が、はじめて国境なき医師団の海外派遣スタッフを常駐させるプロジェクトをイラク国内でオープン。

 新生児の致死率を下げるプロジェクトの責任者としてチームをリードしていた。シーア派の最高権威であるシスターニ師にも謁見した。とてもスペシャルな経験をしていると思った。

「ひょっとするとハーバード・ケネディスクールに行けるかもしれない」

 オフィスのテラスで、ふとそんな「妄想」が頭の中にはじめて浮かんできた。

 それから8年が経ち、本当にハーバード・ケネディスクールに留学することになった。

 営業マンから国境なき医師団へ。そして、フリーターからハーバードへ──。

いま思えば、リスクがある方を選びつづけなければありえなかったキャリアの開発だっただろう。

 仕事でも勉強でも、自分の夢に向かってネクストステップを考えるとき、なにを基準にするか。

 この「居心地のいいゾーンにいて(戻って)本当にいいのか」という問いは、深掘りしてみる価値はある。

<本稿は『「国境なき医師団」の僕が世界一過酷な場所で見つけた命の次に大事なこと』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>

著者の村田慎二郎さん

【著者】
村田慎二郎(むらた・しんじろう)
国境なき医師団 日本事務局長。1977年、三重県出身。
静岡大学を卒業後、就職留年を経て、外資系IT企業での営業職に就職。「世界の現実を自分の目で見てみたい」と考え、国境なき医師団を目指すも英語力がゼロのため二度入団試験に落ちる。
2005年に国境なき医師団に参加。現地の医療活動を支える物資輸送や水の確保などを行うロジスティシャンや事務職であるアドミニストレーターとして経験を積む。2012年、派遣国の全プロジェクトを指揮する「活動責任者」に日本人で初めて任命される。援助活動に関する国レベルでの交渉などに従事する。以来のべ10年以上を派遣地で過ごし、特にシリア、南スーダン、イエメンなどの紛争地の活動が長い。
2019年より、ハーバード・ケネディスクールに留学。授業料の全額奨学金を獲得し、行政学修士(Master in Public Administration=MPA)を取得。
2020年、日本人初、国境なき医師団の事務局長に就任。現在、長期的な観点から事業戦略の見直しと組織開発に取り組む。学生や社会人向けのライフデザインの講演も行っている。NHK総合「クローズアップ現代」「ニュース 地球まるわかり」、日経新聞「私のリーダー論」などメディア出演多数。

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