超一流の誰もが「生まれつきの才能」を持っているという大いなる勘違い
経験を積めば上手くなる。努力は必ず報われる——。このように教わったことがある人は少なくないでしょう。でも単純に経験を重ねても、必ずしも一流にはなれないどころか、経験を積むほど能力が下がってしまうことさえあります。
では「偉大な業績」を上げられる本当に卓越した人々は何が違うのでしょうか。天才たちを研究した成果とともに、才能の正体に迫り、ハイパフォーマンスを上げる人たちに共通する要素――「究極の鍛錬」――があることをつきとめた『新版 究極の鍛錬』よりお届けします。
多くの人は何年たっても成果を上げていない
企業は通常、経験のある管理者を高く評価するが、厳格な調査を通じ、押しなべて「経験のあるマネージャーは高いパフォーマンスを行ってはいない」という重大な事実が明らかになっている。フランスのINSEADビジネススクールとアメリカ海軍大学院の研究者は、こうした現象を「経験の罠(わな)」と呼んでいる。
また、少なくともいくつかの分野ではもっと奇妙な現象すら現れている。経験を積むことでむしろ能力が低下することがあるのだ。経験を積んだ医師のほうが経験の浅い医師に比べ、医学知識が少ないというたしかなデータすらある。内科医も同様に、時間の経過とともに心音聴診やレントゲンに基づく診断能力が低下してくる。会計監査人もある種の評価業務においては時間とともにその能力が低下する。
なぜある種の人だけが素晴らしい業績を上げるのかという問いに対し、多くの人間がその答えだと考えるものが二つある。
一つは「努力」だ。人はたいてい懸命に頑張ることができれば、著しい上達を示す。だから私たちは子どもたちに、何事においても頑張ればうまくなるものだと言う。これはこれとして正しいことではあり、その結果、子どもは他の子どもたち同様に遜色なく物事ができ、問題なく仲間に受け入れられるようにはなる。
しかし、けっしてずば抜けて物事ができるようになるわけではない。単に長時間をつぎ込んだとしても、誰もがみなめざす分野で達人になれないことは科学的研究でも明らかになっている。
つまり、単に「努力すればよい」という一番目の直感的回答は、ずば抜けた能力の謎への適切な回答とはなりえない。
二番目は「才能」だ。卓越した能力を説明する際、直感的に思いつく「才能」という言葉は、一番目の努力とはまったく逆である。しかし、一番目の「努力」を信じることを否定するものではない。二番目に「才能」という言葉が思い浮かぶことを理解するには、少なくとも2600年前の古代ギリシャのホメロスの時代まで遡る必要がある。
「霊感を受けた吟遊詩人を呼びなさい」
「デモドカスよ、神は盲目と引き換えにその甘美なる声を汝に与えた」
これはあの『オデュッセイア』から多く引用されるものの一つであり、また、神から賜った幾多の才能の持ち主への『イリアス』からの引用の一つである。古代ギリシャの時代から、人間は多くの重要な事柄(たとえば天体はどのように動き、病気はどのように発生するのか)について大きく見方を変えてきた。しかし、特定の人がなぜ特定分野で驚異的な能力を発揮するのかについては、その見方を変えていない。
ホメロスがかつて考えたようにデモドカスが素晴らしい曲をつくり、吟じえるのは神から与えられた才能をもってこの世に生を受けたからだと考えているからだ。このことに関し、現代人は古代ギリシャ人と同じ言葉をただ翻訳だけして今でも使っている。
ホメロスのように、偉大な業績を上げる人々は神からの啓示を受け、神によって息吹を与えられた者と依然みなしている。その偉大さの理由を誰も説明できないので、誰かから与えられた能力の持ち主であるとみられているのだ。
さらに、才能のある人は若いうちから自分の才能に目覚める幸運も手にしていると信じている。こうした偉大な業績を生み出す人の説明は、努力すればよいとする説明とは矛盾する一方、我々の頭の中にしっかりと根を張っているため、ある意味で我々を満足させる説明となる。
それは、何百億ドルもの売上がある企業の戦略を立案したり、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲を演奏したり、ゴルフボールを330ヤード飛ばしたりするなどどうやっても我々ができないような偉業を、何の苦もなくやり遂げてしまうことを説明してくれるからだ。
この「天賦の才」説は、同時になぜ偉業を成し遂げる人の数がこれほど少ないかも説明し、また神から与えられた才能はおそらくは偶然に授けられたものではないことも説明してくれる。
自分自身の能力について、こうした説明を受けることはやや憂鬱ではあるが、自分がこの程度なのもしかたがないと受け入れさせてくれる。天賦の才を持ち合わせる人は100万人に一人であり、そのチャンスに恵まれたかそうでないかのいずれかでしかないからだ。持ち合わせていないなら(もちろん我々のほとんどが持ち合わせていないのだが)、偉大な業績を手にすることなど金輪際すっかり忘れるべきなのだ。
普通の人はほとんどの場合、「偉大な業績」の謎についてあれこれ考えることもなく、謎とはみなしていない。自分なりにいくつかの説明方法があり、最初の「努力」という説明が明らかに間違っているならば、二番目の「才能」こそ信ずべきものであるという考えに至る。二番目の説明でもっとも素晴らしい点は、偉業について悩むことから我々を解放してくれるところだ。
もし何かの分野で生まれながらの才能をもっているなら、とっくに気づいているはずだ。しかし、そんな才能は持ち合わせていないのだから、他のことに心を砕くべきなのだ。
だが実のところは、この説明はやっかいなことにも間違っているのである(しかし、本当は我々にとってやっかいなことではなく、むしろ朗報なのだ)。偉大な業績は、これまで考えられてきたよりもずっと我々の手の届く範囲にあるのだ。
誰もが生まれながらに才能を持っていない
さまざまな分野を対象に、高い業績を上げる達人たちの研究が行われてきた。そうした研究対象には経営、チェス、水泳、外科手術、飛行機の操縦、バイオリンの演奏、営業、小説の執筆ならびにその他多くの分野が含まれている。これら何百もの調査研究の結果は、いずれも偉大な業績に関し一般の人が思い込んでいる事柄と真っ向から矛盾する内容なのである。具体的にいえば、次のようになる。
高業績を上げる達人たちがもっている才能は、我々が思っているようなものではないのだ。天賦の才というものがたとえ存在したとしても、彼らの業績を説明するにはけっして十分なものではない。生まれつきの能力というものは単にフィクションにすぎないと主張する研究者もいる。
つまり、あなたは生まれながらにして優秀なクラリネット演奏者や車のセールスパーソン、債券トレーダーや脳外科医ではないのだ。なぜなら、誰も生まれながらにそうした才能をもってはいないからだ。
そして、こうした見方を必ずしもすべての研究者がしているわけではない。しかし、才能論者は自分たちが実証できると信じている生まれつきの「才能」というものが、「偉大な業績」をもたらすために重要な役割を果たしていることを説明しようとすると、それがどんなに難しいことかを痛感するのだ。
<本稿は『新版 究極の鍛錬』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock
【著者】
ジョフ・コルヴァン(Geoff Colvin)
フォーチュン誌上級編集長
【訳者】
米田 隆(よねだ・たかし)
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