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世界のダイヤモンドの75%が1社に集中するのに「資本主義の競争は健全」という矛盾

 個人や企業が自由に財産を所有して経済活動を行えるのが「資本主義」。現在、多くの国では経済システムとして資本主義が採用され、需要と供給によって価格が決まり、それによって「競争」が促され、「イノベーション」が生まれている――。

 一般的にはそのようなイメージがあるかもしれません。

 スペイン・セビリア大学応用経済学教授であるフアン・トーレス・ロペス氏はそこに異論を唱えます。著書『Econofakes エコノフェイクス――トーレス教授の経済教室』より、お届けします。

『Econofakes エコノフェイクス――トーレス教授の経済教室』 サンマーク出版
『Econofakes エコノフェイクス――トーレス教授の経済教室』

ウソ:資本主義は「競争が」促され、「イノベーション」が生まれる

 資本主義には、誰にも疑う余地のないメリットがある。資本主義によって利益を生み出す経済活動に自由に携われるようになると、人々は、社会が必要とする財の生産に励み、その結果、より豊かになれる。

 目標が最大限の利益を得ることである以上、生産者は資源の使い方に気を配り、コスト削減に努める。そのため、技術革新や新技術の開発が大幅に進むことが多い。

 カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスも、約175年前の『共産党宣言』のなかで、資本家階級のブルジョアジーたちが「有史上あらゆる時代を合わせたよりも多量で巨大な生産力をつくりだした」と認めている。

 しかし、資本主義が自由市場と競争にもとづく経済システムだというのは間違いだ。そうはなりえない。

どこがウソなのか?

「自由市場」とは具体的にどんなものなのだろう?

 それは現実には存在していたことがないため、定義するのは難しい。

 一般に、「自由市場」という言葉を使う人たちは、以下の特徴のすべて、あるいはいくつかが当てはまる市場のことを「自由市場」と呼んでいる。

・取引をしようとする人たちの自発性の妨げとなるルールがない市場
・各人が自らの利益をなんの障害もなく自由に追求することができる市場
・各人が何でも自由に売買できる市場
・価格の決定が歪められることのない市場
・需要と供給によって機能する市場
・課税や政府の介入がない市場

 しかしこれらは、現実社会では不可能なことばかりだ。私たちが知っている資本主義経済では、このような自由市場が存在したことは過去に一度もなかった。今後も存在しないだろう。

 当事者たちの自発的な取引を何らかのかたちで制限するルールがなくては、市場は存在しえない。

 たとえば、学校で子どもたちがカードの交換をするといった単純な交換取引であっても、何ができて何ができないかを定める、ある程度複雑なルールは必要だ。たとえばそのルールには「所有権」の保護があり、それがなければ市場は機能しない。

 買った商品が届かないとか、商品が壊れていたとか、あるいは相手が料金を支払ってくれないといった問題が起こるかもしれないと思ったら、誰もそんな取引をしようとは思わないだろう。そういったことが起こらないためにはルールが必要であり、そのルールにはシンプルなものから非常に複雑で詳細なものまである。

 取引に最低限の確実性と安全性を与えたり、合意に反した場合の対処を定めたりする規則や法律が存在しない限り、どんな商取引も成り立たない。

資本主義社会にも自由市場はない

 世界貿易機関(WTO)の役割や合意事項に関する規則をまとめた書類は3万ページ以上ある。また、英国と欧州連合(EU)が交わしたブレグジット[英国のEU離脱]の協定書は約2000ページに及ぶ。どこの国や地域、市町村でもいいので、行政機関の官報や公示を見てみてほしい。

 それが望ましいものかどうかは別にして、今日の経済がルールなしに機能することが実質的に不可能だとわかるだろう。それらのルールは、本来、あらゆる種類の経済取引に参加する人々の行動力を制限するためにある。

 また、たとえ望んだところで、資本主義は、それぞれが好き勝手に個人の利益を追求することなど決して許してくれない。それは、先ほど述べたルールというものが存在し、それを尊重する義務があるからだ。したがって、お互いに権利を侵害し合うことがないように、それぞれの利益の追求はすでに確立された範囲内に収めることが求められる。

 同様に、資本主義社会の市場では、あらゆる財やサービスを完全に自由に売買できるわけではない。私的な取引が禁じられている商品はたくさんある。その取引が良いか悪いか、取引の許容範囲については意見が分かれることもあるだろうが、禁じられているのは、遺伝子コードや大量破壊兵器、さらにはほとんどの国で禁じられている人体や臓器の販売、人身売買などだ。

 いまや、本来は売買の対象ではなく、かつては商品とみなされていなかった人間の命や社会的なものまでもが市場に取り込まれている。資本主義でなければ、市場のスケールはここまで拡大しなかっただろう。

 それでも、倫理的制約あるいは純粋に物理的な制約が存在せず、あらゆる財を完全に自由に売買できるような市場は存在しないし、ありえない。

 ただし理論上は、とても厳しい一連の条件を満たした「完全競争市場」と呼ばれる理想的な市場では、それも可能だ。しかし私たちは経験から、そんな市場は実際には存在しないことを知っている。市場で価格を決める際にどうしても歪みが生じてしまうからだ。

 市場には通常、価格の決定権を持つ企業が1社(独占)または数社(寡占)存在し、より高い価格で売ろうとする企業が製品を差別化したり(独占的競争)、経営陣や労働組合のような組織が市場の価格設定に介入してきたりすることもある。

 資本主義経済大国アメリカでは、連邦政府が2018年には1兆5000億ドル、2019年には1兆8000億ドルの税金をさまざまな援助や補助金に充てている。たとえば住宅部門への財政支出額は、不動産業界の総取引高の6分の1を占めており、当然それが市場価格を歪めることになる。

 たとえ世界に価格設定に歪みのない市場が存在するとしても、それは片手の指で数えられるほどしかないはずだ。

 一方、需要と供給によって取引が行われるのだから自由市場は存在する、というのもまた誤りである。

 市場への影響力を持つある企業が、自社に有利な価格や数量を設定できる市場、すなわち完全競争ならあるはずの「自由」がない市場でも、需要と供給の原理は働く。国家の介入がなくても、わずかな数の主体にのみゆだねられた市場は、自由とはいえないのだ。

資本主義社会にも課税と政府介入は必要

 最後に、自由市場はしばしば、課税がないこと(何といっても、課税は市場価格の設定を歪める要素だ)や国家の介入がないことと同一視される。

 しかし、国家による介入や課税が良いか悪いかという議論は別にして、国家にも収入が必要であり、国家がまったく介入しないことは不可能だ。その理由は言うまでもなく明らかだろう。

 実際、いかなる状況においても市場が提供できない種類の財が存在するのは紛れもない事実である。それは「公共財」と呼ばれ、国防や司法行政、道路、街灯、灯台など、お金を払わずに誰もが利用できる財やサービスのことである。当然ながら、利益が出ないこれらの財は、政府が提供しなければ、誰も提供することはない。

 そして、それらを提供するためには、政府はどこかからお金を得る必要があるのだ。

 同様に、経済が危機的な状態にあったり不安定だったりするときに限らず、平時や景気が良いときでも、政府は必ず経済政策を通じて介入してくるものだ。その証拠に、政府の介入のない資本主義経済は存在しない。

 実際に、マリアナ・マッツカートら経済学者たちが示しているように、資本主義の擁護者たちが大好きな生産性や効率を高める技術革新や技術進歩には、政府の後押しや投資や公共財の生産が不可欠なのである。

「市場は多かれ少なかれ自由に機能する」という意見に対しては賛成でも反対でもかまわないが、自由市場というものが存在し、それが資本主義ならではのものだという考えは、どこから見てもおかしい。

「競争」はあらゆる経済システムに存在する

 反対に、資本主義こそが最も激しい競争の経済システムだというのも、少なくとも経済学という枠組みにおいては間違っている。

「競争」とは2人以上の主体の間で起こる争いや競合ととらえれば、確かにそれは資本主義にも存在する。しかし、競争は他のあらゆる経済システムにも存在する。そのため、スティーヴ・ホロウィッツがいうように、「競争は資本主義社会で暮らしていることの証ではない。それは天国で暮らしているわけではないことの証」なのだ。

 とはいえ、「競争」という言葉は、それが完全に効率的な市場の本質だと考える人たちが経済用語として使う場合には別の意味になる。つまり、不特定多数の売り手と買い手が、等しい条件下で、量と価格が定められた商品をめぐって最大限の利益を得ようと競い合う状況を指す場合だ。しかし、それが資本主義において支配的だと断言するのは完全に間違いだ。

 フリードリヒ・ハイエクをはじめとする超自由主義の偉大な経済学者たちは、「競争」は市場の1つの特徴であるだけでなく、市場を政治的に望ましいものにしている重要な要素であり、資本主義を全体主義体制と区別するものであると主張している。しかし、資本主義が競争にもとづくもので、競争を促進しているというのは誤りである。

 ジョナサン・テッパーとデニス・ハーンが最近の著作で明らかにしているように、歴史をひもといてみると、資本主義は当初から、最大の利益を追求する過酷な競争を避けるために資本の集中に努めてきた。

 経済学の父とされる自由主義者のアダム・スミスは、競争が持つ明らかな利点を指摘したが、すぐに、資本家の思惑は競争を促すものではなく正反対であると気づいた。「同業者が集まると、楽しみと気晴らしのための集まりであっても、最後にはまず確実に社会に対する陰謀、つまり価格を引き上げる策略の話になるものだ(『国富論──国の豊かさの本質と原因についての研究』日本経済新聞出版社刊、山岡洋一訳)」。

 たしかに多くの経済活動において、資本主義は激しい競争と深くかかわっている。しかし、資本主義が競争を制限しようとする傾向のほうがずっと強いことを、たくさんの信頼できる研究が示している。

資本主義は「競争」を制限する

 経済協力開発機構(OECD)は、前世紀末から今世紀にかけて、算出した産業分類の4分の3で資本の集中化が起こり、それにともない競争が減少していると発表している。国際通貨基金(IMF)が、より近年の状況調査を行っているが、そこでも同じ結果が出ている。

エコノミスト誌によれば、1997年から2021年までにアメリカの900の産業部門のうち600部門で資本の集中が増進した。このデータは、アメリカの司法省と連邦取引委員会によっても裏付けされている。また同様のことが、ヨーロッパの調査や134か国7万社の企業動向調査からも確認されている。

 拙著『Economía para no dejarse engañar por los economistas(仮邦題:経済学者にだまされないための経済学)』の第7章「資本主義経済において市場は実際にどう働くのか?」にも書いたように、世界のどれだけの市場が一握りの企業にコントロールされているかを知ると愕然とする。

・1社が世界のダイヤモンド取引の75パーセントを支配
・2社が世界の穀物取引の4分の3を支配
・3社が焙煎・粉砕されたコーヒー市場を支配
・5社が世界のタバコ市場を占有
・6社が世界のレコード産業を支配
・4社が世界の食料品取引の70パーセントを占有
・10社が世界の製薬市場の50パーセント以上、バイオテクノロジー部門の利益の54パーセント、動物用医薬品部門の62パーセント、農薬市場の80パーセント、世界の食品取引の80パーセント、世界の商用種子市場の95パーセントを占有
・世界中の食用動物のほぼすべてを15社未満で所有。世界の鶏卵の半分と七面鳥の半分は多国籍企業のヘンドリックス社とその子会社が占有

 ここまで見てきたような、競争が減少して一部の企業による市場支配が高まる現象は、財やサービス市場にとどまらず、労働市場でも起こっている。しかも労働市場では、自由で競争が激しい資本主義市場ならではの特徴とされている「効率」も低下している。

 アラン・B・クルーガーとエリック・A・ポズナーが2018年に発表した論文では、労働市場での競争が減って雇用者側による市場支配が強まっていることで、賃金も生産性も下がっていることが明らかにされた。

 要するに、資本主義では、確かに資源の利用、生産、分配の各段階で争いが絶えることはないが、それは他のあらゆる経済システムにおいてもまったく同じだ。資本主義の特徴は健全な競争とはいえず、現実にはそれと正反対のことが起こっている。つまり、資本の垂直型および水平型の集中がどんどん進み、それにともない効率的な競争が失われるのが資本主義なのだ。

 このようなことが起こるおもな要因は3つある。

 1つ目は、経営者と従業員、あるいは生産者と消費者の間の非対称な関係にもとづくシステムであること。

 2つ目は、絶えず投資の増加が求められる市場で、利益を増やすためには市場の占有率を高めざるをえないこと。

 3つ目は、新しい技術や特許の囲い込みにつながる市場の独占化が進んでいることだ。

 まとめると、これまで資本主義が「競争」の経済システムだったことはほとんどなく、現在はさらに競争の度合いが減少している。

そのウソがどんな結果をもたらすか?

 ここで見てきたウソによってもたらされる最も重大な問題は、実際には備えていない長所をあたかも備えているものとして擁護してしまうことだろう。資本主義とは競争にもとづく自由市場の経済である、あるいはいずれそうなるだろうという理論は、まさに知的な詐欺だといえる。

 資本主義というものに、実際には存在しない価値を付け加えて評価しているからだ。現実を隠し、人間の知が生み出した妄想やファンタジーに頼らない限り、そんな考え方は成立しない。

 このいわゆる「完全競争市場モデル」は、19世紀末、資本主義を実際よりもレベルの高いものに見せかけ、疑う余地のないシステムだと人々に信じ込ませるためにつくられた。

 それはまた、経済主体の行動と市場の構造に一連の条件を与えれば、需要と供給の完璧な均衡が得られることを数学的に示している。しかしこれは、並外れた想像力と知性によって巧みにつくりだされたウソだ。もし本当にこのような状況がつくれるなら、最高の効率を達成できるはずだ。つまり、あらゆる資源は最低コストで最も効果的に利用され、すでに述べたように、あらゆる生産者と消費者に最大の利益が与えられるはずだ。

 こんなモデルに疑問を投げかける勇気のある人などいるだろうか?

 問題は、世界中の大学で教えられつづけているモデルであったとしても、現実的にはどう考えても成り立たないということだ。世界各地の経済の歴史が例外なく示しているように、ある条件を与えてうまくいったとしても、他の条件では失敗したり、あるいはどれもうまくいかなかったりするのだ。

「資本主義」を守るために問題解決法が否定される

 このようなウソを擁護する人たちの目的はなんだろう?

 それは、どんな商品を、どうやって、誰のために生産するかという、人間社会が抱える大問題を解決してくれるのが資本主義だと人々に信じさせることだ。

 私たちが生きている社会の経済システムが「自由と競争」のもとに成り立っているという前提をつくることによって、それとは違う方針の措置がとられそうになったときには、実際には自由でも真の競争でもないこのシステムを害するからという言い訳で拒否することを正当化できるのだ。

 しかし資本主義を大いに擁護する彼らも、ときに雇用者や大企業の力を制限する規制に反対するなどして、とんでもない矛盾を露呈させる。当然だろう。理論上の資本主義でなく、200年前から日常に根差してきたリアルな資本主義は「競争」の大敵なのだ。同時に、貧しさのせいで市場における決定権を持たない多くの人が必要とする選択の自由の大敵でもあるといえる。

 実際、「市場の自由と競争を擁護する資本主義」というこのウソのせいで、労働時間の短縮、最低賃金、児童労働や奴隷のような労働、社会保障とその権利、環境規制、より公平な社会に向けた再分配といった問題の解決に向けた政策が常に反対されてきたことは、歴史が証明している。

ホント:資本市場における自由市場が招くのは「富の集中」

<本稿は『Econofakes エコノフェイクス――トーレス教授の経済教室』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>

(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock


【著者】
フアン・トーレス・ロペス(Junan Torres López)
セビリア大学応用経済学教授

【訳者】
村松 花(むらまつ・はな)

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