ニュースを決断の根拠にせず「そこにないもの」に目を向けよう
日々の生活の中でニュースを見聞きしたことによって、直後の行動に影響を及ぼすことがあります。
『News Diet』の著者、ロルフ・ドベリ氏は、そこには盲点があると指摘します。
「取り出しやすい」情報を優先的に頼って判断している
いますぐに、ぱっと頭に浮かんだ「花」と「色」と「ペット」の種類を言ってみよう!
言い終えただろうか? あなたがたいていの人と同じように考えたとしたら、あなたの答えは「薔薇」「赤」、「犬」あるいは「猫」といったところだろう。花の種類は1万種もあり、色は数十色も、ペットの種類もきっと百種類は下らないだろうというのに。
これが「利用可能性バイアス」だ。私たちは自分の目の前にある情報や、すでに頭のなかにあって取り出しやすい情報を優先するものなのだ。
頭から取り出しやすい〝利用可能な〟情報は、私たちの決断に強い影響を及ぼす。
どんな決断も決断の根拠となるものにもとづいて下されるが、その根拠は情報でできている。そうした情報を選び出すとき、私たちはいつも、数多の情報のなかからすでに手元にある手軽なものを取り上げる。重要度はもっと高いかもしれないが、残念ながら調べなくては手に入らないような情報を選ぶことはない。
経済界から例を挙げよう。経営陣は会議の際、議事日程の項目順に整然と議論を進めていく。だが、もっと重要かもしれないのに、議事日程には含まれていない項目については議論しない。
政治の世界にはこんな例もある。私はスイスのベルンに住んでいる。このスイスの首都はこぢんまりしているため、必然的に政府機関で働いている人と知り合う機会がある。
ある高い役職にある役人が、私にこんな話をしてくれたことがある。連邦参事(スイスでは内閣の閣僚はそう呼ばれている)が集まる週に一度のブリーフィングでは、決まって全員が、まずメディアが報じた論評について話しはじめるのだという。
これがなかなか厄介で、メディアの論評よりももっと重要で、まだ手つかずのままのテーマがいくつもあることを、再三再四指摘しなくてはならないらしい。
ニュースは、ほかのものを押しのけて意識の表面に浮上する、途方もない力を持っている。その影響を受けていては、分別ある決断を下すのはほぼ不可能だ──とりわけ、経済や政治に関する決断は。
「利用可能でないもの」は「存在しないもの」に
ニュースを消費すると、あなたはニュースを決断の根拠として使う危険を冒すことになる。そのニュースがあなたの心を占めているテーマとはほぼなんの関係もなくても、無意識のうちにそうしてしまうのだ。
たとえばあなたが、地球の反対側で起きた飛行機の墜落事故のニュースを聞いたとしよう。そしてその翌日に、見込みのありそうな取引を成立させるには、ロンドンに飛ぶ必要があることが明らかになったとする。
ところが前日のニュースの影響を受けているあなたは飛行機に乗るのを躊躇して、ミーティングを反故にしてしまう。ニュース番組で取り上げられていた飛行機は、ロンドン行きのあなたのフライトとはなんの関係もないというのに。
ニュースは私たちの脳のなかで我がもの顔に羽を伸ばし、その情報のなかを私たちはよろこんでゴロゴロと転げて回る。私たちの感情を大きく動かす写真や動画や記事ほど、脳のなかに占める場所も大きくなる。
そうしてニュースは私たちの思考の最前列に場所をとり、そのほかのどんな情報(たとえば統計や歴史的な対比、複雑な論拠や反論など)よりも格段に「利用可能」になる──決断の根拠としては、そのほかの情報のほうがはるかに適していたとしても。
議論においては、テーマを設定した者が力を持つ。あなたが関心を持つべきものをニュースジャーナリストに決めさせてしまうと、あなたは自分の人生を左右する大きな力を彼らに与えることになる。
読者のみなさんは、自分の人生のコックピットには、もちろん自分ですわりたいと思うのではないだろうか? ストレスに追われた雇われライターに操縦をまかせたくはないだろう。
価値ある情報を探す予算も時間も与えられていない彼らは、「利用可能でないもの」は「存在しないもの」にしてしまおうとする。この取り違えを、私たち消費者はほぼ自動的に引き継いでしまう。
「そこにないもの」にこそ目を向ける
ニュースジャーナリストが犯している重大な取り違えはこのほかにもある。「予防」を「存在しないもの」にしてしまうのだ。
事故を防ぐための英雄的な行為、つまり、予防になるような行為は、たいていニュースジャーナリストの目にとまらない。消防隊の次の出動先にレポーターを送り込むのは自明のことだが、誰かの思慮深い行動のおかげで大火災を防げたというルポルタージュを書くのは自明のことではないのだ。火事と闘うより、火事を阻止するほうがずっと効率がいいはずなのに。
もし誰かが、飛行機のコックピットに防弾のドアと鍵を取りつけるようアメリカの航空局を説得していたとしたら、2001年9月11日に起きたようなテロは避けられただろう。だが、その人やその提案について書くジャーナリストはひとりもいなかったに違いない。
ニュースは、緊急の医療措置や企業再建や戦争地域での救助活動については報じても、それらの出来事が起きるのを防ぐための行為は報じない。
英雄的な行為は、連日、何百万と成し遂げられているというのに──高速道路に、崩落しないじゅうぶん頑丈な橋を建設する技師。霧のなかや夜間に飛行機を無事着陸させるパイロット。適切なタイミングで適切な常備薬を子どもに与える母親。
これらはすべて予防のための行為だ。賢明で、社会的に価値のある行為だ。それなのに、このどれもがニュースジャーナリストの目にも、ニュースの消費者の目にもとまらない。
これは提案なのだが、予防の措置に対するノーベル賞でもあるといいのかもしれない。
残念ながら、ニュースジャーナリストが取り違えていることはもうひとつある。「そこにないこと」は「重要でないこと」だと考え違いをしているのだ。ときには、そこにないこと──つまり起きていないこと──こそが重要な場合もあるのだが。
起きたことを認識する感覚が研ぎ澄まされているジャーナリストは、基本的に、ないものに気づくことができない。そうして彼らは、吠えてはいないが、いつか手ひどくかまれることになる犬を見逃してしまうのだ。
▼ 重要なポイント …………
ニュースジャーナリストには本質的な盲点がある──彼らのせいではなく、ニュースというフォーマットに欠陥があるためだ。彼らは「利用可能でないもの」と「存在しないもの」を、「予防」と「存在しないもの」を、そして「そこにないこと」と「重要でないこと」を取り違えている。これらがあなた自身の盲点にならないように気をつけよう。ニュースを断って、明確にものを見る習慣を取り戻そう。
<本稿は『News Diet』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock
【著者】
ロルフ・ドベリ(Rolf Dobelli)
作家、実業家
【訳者】
安原実津(やすはら・みつ)
◎関連記事