ひとりを楽しめるようになれば、人とのかかわり方も変わる
年頃の男女に結婚を迫る風潮は、ヨーロッパの経済大国ドイツにもあるそうですが、ドイツで人気の女性インフルエンサー、マリー・ルイーゼ・リッターさんは「ひとりでいること」について突き詰めます。著書『ハッピー・ロンリネス 群れないドイツ人 幸せのかたち』よりお届けします。
ひとりでいることの幸せについて
「このままいくと、死ぬときはひとりよ」母はことあるごとに私にそう言った。たとえば16歳のころ、なんだかしっくりこないボーイフレンドと別れたとき。反抗的な態度をとったとき。あるいは遠縁の伯父のダンスの相手をするのを嫌がったとき。「辛抱してみることも大事なんだから」というのが母の持論だった。
「死ぬときはひとり」という言葉には、どこか恐ろしげなニュアンスがある。道端に捨て置かれ、太陽の熱に焼かれながらゆっくりと死んでいくトカゲと同じ運命を告げられたみたいだ(こんなたとえを思いつくのは、私がいまニカラグアのカフェにいるせいだろう)。幼いときも、10代になってからも、「ひとりでいること」の恐怖のシナリオを突きつけられることは何度もあった。
「ひとりでいること」はいけないことなのか?
ひとりでいること、パートナーを見つけられないことは、世間では「できるかぎり避けるべき状態」だと考えられているようだ。頑固で意地っぱりな私は、そんなふうにしていたら誰からも求めてもらえないよと諭された。「もう少し、まわりにあわせたほうがいい」と。
「あなたに必要なものは全部、とっくにあなたのなかにある」
一昨年の夏、ざらざらした紙に重みのある万年筆を走らせて、私はそんなフレーズを書き込んだ。愛をテーマにした前著にサインをしていたのだけど、ほとんど無意識のうちにそんなふうに書いていた。7月の終わりで汗をかいていたので、きれいなページからできるだけ距離をとりながら手を動かした。
全部で700冊サインしたなかで、書き損じたのは一度だけだった。書き込むフレーズは、いくつかのパターンのなかから順番に選んだ。「愛を信じて。でもそれ以上に自分自身をつねに信じて」というのもそのひとつだ。
本を開いてそのフレーズを見つけた誰かが、思わず頬をゆるませ、温かな気持ちのまま続きのページを読む様子を想像すると、思わず幸せな気持ちになった。
なかには、自分が抱える問題を頭に思い浮かべて、「そうか。この問題の答えはもう私のなかにあるんだ」と気づいてくれた人もいるかもしれない。どのフレーズにも、こんなメッセージが込められていた。あなたはすべてを持っている。けっして自分を疑わないで。何もかも、いまのままでいいのだから。
私はとにかく、孤独、疑念、満たされない承認欲求といったものとは対極にあるポジティブさを引き出し、読者を勇気づけたかったのだ。あなたのなかにあなたがいるなら、ほかには誰も必要ない──私が伝えたかったのはそういうことだ。
もしそうだとしたら、それはこの社会や私たち自身にとって、それからつねに目の前にある「死ぬときはひとり」というシナリオに対して、どんな意味を持つのだろう? 必要なものがすでに自分のなかにあるのだとしたら、ひとりでいるのも悪いことではない、といえるのではないだろうか?
以前は、ひとりでいることについてきちんと考えたことはなかった。失恋のショックを引きずったり(その経験はけっして少なくない)、大学の課題に没頭したりして、何日も人に会わないことがあっても、自分がひとりだと実感することはなかった。ひとりで過ごすのは、私にとっては普通のことだった。
ただし、ここでいう「ひとりで過ごす」は、「ひとりで家にいる」ということだ。
四方を壁に囲まれた自宅で過ごすということだ。食事のデリバリーを頼んだり、城塞に住んでいるみたいにクッションや毛布を自分のまわりに高々と積み上げてみたり、お湯がすっかり冷えるまでバスタブで読書をしたり。自宅にいれば安心できた。一緒に出かけられる人が見つからなければ、家にいた。ひとりで映画館やレストランに行ってみようなんて考えたことはなかったし、ましてやひとりで旅に出るなんて、ありえないことだった。
私にとって旅行とは、友達やそのときのパートナーと思い出をつくったり、充実した時間を過ごしたりするための特別なものだった。ひとり旅をするという選択肢は、最初からなかったのだ。
旅で自分の殻に閉じこもってみる
ところがあるとき、友達がガンで亡くなった。あまりにとつぜんのことだったので、別れを告げることも、彼女とのあいだにあったわだかまりを解消することもできなかった。人生では、「それ以前」と「それ以後」を分けてしまうような決定的な出来事が数年おきに起きるものだが、私にとっては彼女の死がまさにそれにあたる。
彼女が亡くなったのは1月のことだ。私は何をすればいいかわからなかったし、彼女を失った悲しみや、自分のなかにある罪悪感をどう処理すればいいかもわからなかった。ただ、その状況から抜け出したかった。どこか遠く、できれば海の近くに行きたいと思った。
生まれて初めて、遠い場所でひとりになって、自分の殻に閉じこもりたいと思った。初めてのひとり旅に出る前の心境は、いまでもはっきりと思い出せる。この本で最初に取り上げるのは、このときのひとり旅についての話だ。自分だけで何かを計画し、丸一週間、意識的にひとりになったのは、このときが初めてだった。4年以上前のことだが、この旅をきっかけに多くのことが変わった。
誰かとふたりですることは、じつは全部、ひとりでもできる。世界中を旅してまわったりすることも、贅沢な料理をつくったりすることも、レストランでいちばん高い料理を注文したりすることも。ひとりでしたところで何も問題はない。それなのに、ひとりでしてみると、なんだか妙な気分になる。
家に来客があるとき、私たちは新鮮な花をテーブルに飾り、部屋を念入りに片づけて、棚にしまってあるとっておきのコーヒーを出してもてなす。その後は一緒に、新しくできたレストランを試しにいく。どれも、誰かと一緒だからすることだ。ふたりなら、そうするだけの価値があるから。
でもそれだと、私たちは自分以外の誰かのためだけに生きているということにならないだろうか? とくに旅行の場合には、こんな疑問も浮かんでくる──旅先での体験は、誰かと分かち合ったほうが価値あるものになるのだろうか? 分かち合える誰かが隣にいないと、体験したことの価値は下がるのだろうか?
私たちはすぐに、こんな思考パターンに陥りがちだ。「まずは人生のパートナーを見つけて、そしたら、世界中を旅してまわって、すてきなアパートメントの最上階に引っ越して、思いきって古いオープンカーを買って、昼下がりにはそれに乗って一緒に湖へ出かけるの!」(実際は、すてきな人に出会ったと思っても、朝から晩まで仕事しかしないタイプだったりするから困ったものだ)。
人生は待合室ではない
でも、夢や趣味を分かち合える相手、ときにはあなたのために週末の予定を立ててくれる相手がいないと、あなたは夢そのものをあきらめてしまう。「まあいいわ、たいして重要なことでもないし」と。でも、そんなのは間違ってる! あなたの夢は大切なものだ! あなた自身の人生の時間も、その時間をどう過ごすのかも、とても大事だ。人生は、一緒に何かをしてくれる人が現れるまでじっとしている〝待合室〟ではないのだ。
それに、もし相手の気が変わって、せっかく立てた旅行の計画が台無しになったり、手に入れたコンサートのチケットが無駄になったりしたら、あなたは大いに落胆するだろう。私たちは、自分の体験を「有意義な(ふたりの)時間にすること」と「パートナーがいない(ひとりの)時間にすること」に分けて考えすぎる。でも、そんな区分けはナンセンスだ。いますぐやめてしまおう。
「ひとり」といっても、自分の意思でひとりで過ごすことと、嫌々ひとりでいることには違いがある。また、単にひとりで引きこもることと、まわりから取り残されてひとりになることも違う。
とはいえ、いずれにしてもこう思う──私たちは、自分に会いに来てくれる誰かのためだけに生きるのではなく、人付き合いだけを優先して生きるのでもなく、自分自身のために(あるいは、何よりもまず自分のために)生きるべきだと。人生を、自分のためにすばらしいものにするのだ。ひとりを楽しめるようになれば、人とのかかわり方もがらりと変わるはずだ。
それにそのほうが、しなやかな生き方ができる。ひとりの時間は「パートナーが現れるのをただ待つだけの時間」ではない。ポジティブにとらえて、もっと有効に使えるようになろう。
<本稿は『ハッピー・ロンリネス―群れないドイツ人 幸せのかたち』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
【著者】
マリー・ルイーゼ・リッター(Marie Luise Ritter)
【訳者】
安原実津(やすはら・みつ)
Photo by Shutterstock
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