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『BIG THINGS』翻訳者・櫻井祐子さんが初めて明かした「ベストセラー翻訳」の裏側

翻訳書がベストセラーになるかどうかは原書の内容にかかっていると思われがちだが、クオリティに決定的な影響を及ぼしているのが「翻訳者さん」の存在だ。そんななか、出版界で「日本でいちばんうまい」と讃えられ、「一度はお願いしたい」と言われる翻訳者がいる。『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』(ベント・フリウビヤ、ダン・ガードナー/著)の翻訳を務めた櫻井祐子さんだ。

『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』

『BIG THINGS』の担当編集者・梅田直希(サンマーク出版)は、「櫻井さんを独占できる契約書があったら速攻でハンコを押す!」と語るほど、ベストセラーを生み出すうえで欠かせない存在として、厚い信頼を寄せている。

そんな櫻井さんに、梅田が独占インタビュー。翻訳者になるためには、どうすればいいのか。翻訳の際に心がけていることとは。普段、どんな日常を過ごしているのか、などなど、知られざる翻訳者さんの仕事について深掘りしてみた。

梅田直希 (サンマーク出版 翻訳編集部編集長)

■原体験は『赤毛のアン』の翻訳での感動

梅田:櫻井さんは数々のベストセラーの翻訳に関わり、業界内ではお名前が知られています。Xでも読者の皆さんと交流されていますが、一方で、インタビューなどで表に出ることは少ないですよね。

櫻井:実は、これまでもそういうお話をいただいたことはありましたが、遠慮していました。

梅田:え、そうだったんですか!?

櫻井:基本、自己肯定感が低い人間なので、自分ごときがインタビューを受けるなんておこがましいと思っていましたし、本を読んだときに翻訳者の顔が透けて見えるのもちょっとなあ……と思い、黒子に徹してきました。

梅田:では、なぜ今回引き受けていただけたんですか?

櫻井:それは……1人でしゃべらなくていいからです(笑)。 あと、純粋に編集者さんの話を私が聞いてみたかったというのもあります。翻訳した『BIG THINGS』についての紀伊國屋書店・梅田本店の百々さんと梅田さんの対談記事を読み、とっても感動して、「私も聞いてみたい!」とも思いました。

梅田:読んでいただいたんですね、ありがとうございます! たしかに、訳文の修正についてはやりとりするけど、訳者さんと共有するのは「原稿の話」にとどまることが多い。原稿が「本」になる過程や、今どう広まっているかみたいな話ってしたことないかもですね。

櫻井:はい、なので私も「翻訳書編集者」、とくに梅田さんのお仕事について興味津々なんです!

櫻井祐子さん(書籍翻訳家)

梅田:僕も聞きたいことたくさんあって……翻訳をするうえで英語力は必須だと思いますが、そもそも櫻井さんと英語の最初の接点でどこだったんですか? どうやったら、櫻井さんみたいな英語力が身につくんだろう、いいな~と思っておりまして。

櫻井:私は生まれが日本で、幼稚園の年長の頃に父の仕事の関係でユーゴスラビア(現在のセルビア)のベオグラードに行きました。

梅田:海外で育ったんですね! (じゃあ無理だ……と早々に砕かれる)

櫻井:その後、政治社会情勢が不安定になって、半年ほどでオーストリアのウィーンに移り、現地のイングリッシュスクールに通いました。それが英語とのつき合いの始まりですね。小学校4年生の時に帰国しましたが、その後も英語教育に熱心な中高(雙葉)に通い、高校時代にも留学するなど、今思えば英語はつねに身近にありました。

梅田:幼少期に英語力の源泉があるとしたら、海外経験が豊富な櫻井さんが、翻訳の仕事に興味を抱いたきっかけは何だったんですか? 翻訳というお仕事って、普通に生きていたら気づかないような気がして……。

櫻井:そうですよね(笑)。 私はもともと活字中毒で本を読むのが大好きなのですが、オーストリアから帰国後、英語でも読んだモンゴメリの『赤毛のアン』を日本語で読む機会があったんです。原書を読んでいたのですでに内容はよく知っています。でも、日本語で読んだら、突然、解像度がググッと鮮明になる衝撃を受けたんです!

梅田:まさに「翻訳」に衝撃を受けた!

櫻井:はい! たとえば『赤毛のアン』で、アンがもらわれていく家にマシュウさんという初老のおじさんがいるのですが、英語の "well now"という口癖が、村岡花子さんの神訳では「そうさな」と訳されていて。それを読んだとたん、パンチを食らったような衝撃を受けました。そのたった一言で、寡黙で、控えめで、頑固で、でも優しくて愛情たっぷりなマシュウさんの人格がわーっと目の前に浮かび上がってきて。まさに魂を揺さぶられるような体験でした。

『赤毛のアン』
(著)L・M・モンゴメリ (訳)村岡花子

■どうやって「翻訳者」に?

梅田:たった一言の「そうさな」が櫻井さんに翻訳のパワーを思い知らせた……

櫻井:ですね。言葉って、意味を伝えるだけの道具じゃない、一つひとつの言葉の背後に、生活や文化に根ざした豊かなイメージがあるんだ、って気づかされました。でも、その時にはまさか自分が翻訳者になるとは思いませんでしたよ(笑)。ただ、海外の本を日本語で読める贅沢さや楽しさに目覚めて、翻訳書を好んで読むようにはなりました。といっても主にミステリーやSFですが、大学生の時は叔父のビジネス蔵書を片っ端から読んでいましたね。

梅田:では、お仕事としての「翻訳者」と出会うきっかけはどこに?

櫻井:京都大学を卒業後、銀行でデリバティブのディーリングという、翻訳とはおよそ関係のない仕事をしていました。

梅田:デリバティブ? ディーリング?

櫻井:デリバティブというのは、金融商品(債券、為替など)の価格が上下することによるリスクを回避するための商品(先物、オプション、スワップなど)です。簡単に言うと、数理モデルを使ってデリバティブの価格づけをして機関投資家に提供したり、それらを銀行の自己資金で売買して利益を上げたりする仕事ですね。

梅田:おお、むずかしそう……(櫻井さん、すご)

櫻井:その後、イギリスに留学してから銀行を退職し、しばらく日本の政府系機関のロンドン事務所で働いていたとき、英語の専門的な報告書の抄訳を山ほど頼まれたんです。やってみたら、意外に向いてるのかなと思いました。でも、読者はほぼゼロで、フィードバックもほとんどなく、砂漠に水を撒くようなむなしさも感じていたんですよね。そのとき、どうせ翻訳するなら誰かに読んでもらいたい……という思いが生まれてきたんです。

梅田:レポートの翻訳が「読んでほしい」という気持ちに火をつけ、書籍翻訳への道を開いた!(ロンドンの政府系の機関、ありがとう!)

櫻井:はい! イギリスで結婚、出産後帰国して、子どもが手のかかる子だったので、家にいながらできる仕事を探していたことも、「翻訳者」という仕事を選ぶ強い追い風でした。けど、翻訳者って免許がある仕事でもなく、どうやってなればいいかわからない。

梅田:そうですよね。英語ができる人はたくさんいるし、そもそも訳書がなければ自分の翻訳スキルを見せる機会も難しい……どうやって「翻訳者」になったんですか?

櫻井:こう言ってしまうと再現性がないように思われるかもですが、私の場合は本当に運でした。知り合いに紹介してもらった翔泳社の編集長さんに会いに行ったら、ちょうど翻訳者を探してらしたんです。その場でハーバード・ビジネス・スクールが出しているビジネス書を翻訳する仕事をもらいました。これはラッキーでしたね。自分の原稿が立派な本になって、名前が表紙に出て、何より読んで下さる人がいて、印税までもらえて……なんていい仕事なんだ、って感動しました。

梅田:そういう経緯だったんですね。

櫻井:しばらくは翔泳社さんで王道のビジネス書の翻訳をさせていただいていましたが、一時は仕事があまりなくて、正直もうやめようかなと悩んだこともありましたね。その後また別ルートで、早川書房さんからもお仕事をいただけるようになりました。そして『100年予測』という地政学の本で、ノンフィクション翻訳の賞をいただき、ありがたいことにこれを機に仕事が舞い込むようになりました。いろいろな出版社の優秀な編集者さんに育てていただき、すばらしい作品にも恵まれ、本当にありがたいことだと思っています。

『100年予測―世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』
(著)ジョージ フリードマン / 早川書房

梅田:僕が櫻井さんの名前を知ったのは、『巨大システム 失敗の本質』(東洋経済新報社)という本を読んだときでした。ヘビーなテーマなのに内容がわかりやすく、「誰が訳しているんだろう?」と真っ先に思ったのを覚えています。「こんな翻訳原稿が上がってきたら、めちゃくちゃ幸せだな〜」とも思ったこと、鮮明に覚えています!

櫻井:ありがとうございます! ベストセラーを連発して、この若さで統括編集長をされている梅田さんにそう思っていただけたなんて、ほんとにうれしいです。

梅田:どの洋書を日本で出すかを検討する際、翻訳者さんにサマリーを作ってもらいます。櫻井さんに最初に連絡したのも、そのサマリーをお願いする連絡だったかと。

櫻井:そうでした! サマリーをまとめるのって手間がかかるので、時間がないとお断りすることも多いんです。でも梅田さんの本はどれも一風変わっているので、ついつい「何これ??」と興味を引かれて、読みたくなってしまうんですよね(笑)

梅田:櫻井さんに見てもらえるのは、僕からするとめちゃくちゃありがたいんです。櫻井さんって、「これは面白い」「これは面白くない」ってバッサリ言ってくれるじゃないですか。

櫻井:うう……毒舌でバッサバッサ斬ってますよね、ごめんなさい……

梅田:いや、めちゃくちゃありがたいんですよ、本当に! だって、本当は原文を全部読めたらいいのですが、僕にはその英語力もないし、時間確保も難しい。なので、訳者さんの所感を信じるしかないところもある。面白くない本を避けられるという意味でも、閾値の高い櫻井さんが面白いという本は「多分めちゃくちゃ面白い」と確信できる意味でも、とってもありがたい存在なんです! 櫻井さんを独占できる契約書があったらすぐにハンコを押すくらい信頼しています。

櫻井:梅田さんにそこまで言っていただけるなんてうれしすぎます(涙)。 翻訳を続けていてよかったです。翻訳の仕事は「人生ロンダリング」のようなものだと思っていて。

梅田:人生ロンダリング?

櫻井:人生には挫折や失敗もありますが、それらをひっくるめたいろんな経験をすべて糧にすれば、その分著者の文章により共感を持って、深く向き合える気がしています。売れないとつらい思いもしますが、自分の成果物が物理的なかたちで世に出て、とくにビジネス書はそれを読んだ方に実際に役立てていただける。こんな仕事はそうそうないと思います。

梅田:編集も同じかもしれませんね。翻訳書を探すとき、自分の失敗や欲望、本当に知りたいことを掘り下げに掘り下げる。そこにガッチリ当たる洋書を見つける、編集する。それでこそ、その人が担当する意味が生まれて、タイトルや帯の文言に「人間味」が出るのかもしれません。

櫻井:そうですね!

翻訳時は、企画・翻訳・編集、それぞれのフェーズで翻訳者と編集者が心身を原稿にぶつけながら1冊の本を作っていく――次回は、そんな翻訳者と翻訳書編集者の仕事と生態について掘り下げます!

(文・構成=山内貴範・編集=サンマーク出版 Sunmark Web編集部)


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