「仕事と俺、どっちが大事?」言わせた彼女の葛藤
つんとした冷たさが、突然、首筋に降ってきた。
空を見上げると、まぶたのあたりに、さらにもう一つ。まったく、今日もかい。
「埋葬委員会の日は、なぜだかいつも、雨が降る……」
焼肉屋からの道すがら、黒田さんがつぶやいた。
「なんか、黒田さんがいつもそうやって言うから降ってる気がするんだけど」
「事実を言ってるまでですよ」
大量のお肉でぱんぱんにふくらんだ下っ腹を抱え、私たちは、早歩きで「雨宿り」へ向かった。先頭を行くのは、私でも店長でも黒田さんでもなく、菊乃さんだ。ダントツで食べまくっていたとは思えないほど軽快に、そのキリンみたいに長い足で、ずんずんと歩く。
追いかけたくなる女性。ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
うん。菊乃さんは、追いかけたくなる人だ。そのしゃんとした背中を見ていると、どうしてか、焦る。見失わないように、置いていかれないように、自分も急ぎ足になる。
そんな、不思議なカリスマ性みたいなものが、菊乃さんにはあるような気がした。たぶん、本人は自覚してないだろうけど。
正直、恋愛で悩むタイプには見えない。どんな相談内容なのか予想もつかなかった。
「雨宿り」に到着し、濡れた上着をハンガーにかけ、菊乃さんを奥のソファ席に案内する。首にかけたタオルでぐしゃぐしゃと髪の水滴をとりながら、菊乃さんは、あらためてじっと、店の中を観察していた。
「今回のご相談内容について、聞いてもいいですか」私がそう口火を切ると、菊乃さんは少しだけ気まずそうに、耳たぶのうしろをこりこりと掻いた。
「その……」
「はい」
「……仕事と私、どっちが大事なの?」
菊乃さんから出てきたとは思えない想定外の言葉に、ぎくっと肩が跳ねる。
「……って、恋人に言ったこと、あります?」
あった。普通にあった。
思い出したくないのに脳内の映像は、私が許可するよりも先に自動再生されてしまう。
「……結城さん、言ったことあるんでしょ」
「お願い今は聞かないで」
黒田さんの視線から逃げるように、私はカフェラテをぐるぐるかき混ぜた。
こんな質問する女は最悪とか、雑誌やらテレビやらSNSやらで、何回議論になれば気がすむんだと言いたくなるほど、使い古された定番のセリフ。言ったら関係が終わるってわかってるのに、どうして言っちゃうんだろう、本当に。
「じゃあ、言われたことは?」菊乃さんは、質問を変えた。
自然と、私と黒田さんの視線が、店長に集中する。
「え、俺?」
「店長、絶対あるでしょ!」
「ありますね。百万回は言われてますよこの男は」
「あー、そうねえ……あるっていうか、いっつも言われてたかも」
「やっぱり……。この究極の二択、結局どう答えるのが正解だと思う? 店長は」
というのも、私もよくわからないのだ。恭平にどう答えてほしくてあんな質問をしたんだろうと、今でもときどき不思議になる。
「まあ、そこはやっぱり『寂しい思いさせちゃってごめんね』が鉄板だよね。あとは、『そこまで思い詰めてたなんて……気がつけなくてごめんね』とかもよく言ってたか」
よく言ってたってすごいな。言われすぎてバリエーション増えちゃってるじゃないの。
「ま、でも、言葉で解決しようとするのはアマチュアの発想だよ」
「はいはい。プロはどうするんですか?」
「そっと抱きしめるのが一番」
と、店長は、その美しい顔面を見せつけるように、前髪をかきあげた。
「それ、雨宮さんの顔面があるから成立する作戦じゃ……」
「さすが、ブレないね……」
あいもかわらずぺらぺらと語る店長を見て呆れる私たちとは対照的に、免疫のない菊乃さんは、口をあんぐりと開けている。ソファの背に全身を預け、頭を抱えた。
「やっぱそっか、そう言えばよかったのか……。私、できなかったんだよなあ……」
ん? できなかった!?
「え、どっちが大事なのって、菊乃さんが言われる側だったんですか?」
菊乃さんは、こくりとうなずく。
バリバリ働く仕事大好き人間の菊乃さんに、お相手が不安になったってこと?
「それ言われた瞬間、頭の中、真っ白になって」
菊乃さんは天井を見上げる。
「……気がついたら、仕事って、口から出てた」
「えええ!?」
この究極の二択で「仕事」ってはっきり言っちゃう人が、まさか存在するとは。
「なんで? 好きじゃなかったの?」
菊乃さんは、両手を首のうしろで組んで、ぽつりとつぶやく。
「……好きだった、はず、なんだけどなあ」
風が強くなってきたのか、雨粒がはじける音が少しずつ、強く、濃くなっていく。
部屋の空気も少し冷えてきたような気がして、私は思わず身震いをした。
「……なんで言えなかったんだろ」
*
「その人と出会ったの、二十九歳のときだったんですよ」
菊乃さんは、冷えた指先をあたためるように、カップを両手で包み込む。
「だから、今から六年前か。ちょうどその頃結婚ラッシュで。まわりの友達はバンバン結婚するし、出産するし。親からもまだかまだかーって言われて、すごい焦ってたんです」
心臓の裏側を、たわしでざらりとこすられたような心地がした。
二十九歳。まさに今の私の年齢だ。そして私はもうすぐ、三十歳になる。
「だから、手っ取り早く結婚したかったんです。婚活アプリにも手当たり次第登録したし、合コンにも参加しまくって……。元カレは、六本木の街コンで出会った人でした」
菊乃さんは、カップのふちを親指でゆるりとなでた。
「そこ、けっこう大規模な街コンで。男女百人ずつ、合計二百人くらい参加していて。コスパよく結婚相手を見つけたい私にとっては、メリットだらけでした。もちろんいろんな人がいたんですけど、出会って一分で、彼ははっきりと『結婚相手を探してる』って言ってきたの。遊びはいらない、っていうのが伝わってきた。この人、いいじゃん! この人にしよう! って思いました」
さすが、営業課長だ。目的を決めたら、最短ルートを、迷わずに進む。
「で、彼って、どんな感じの人? 第一印象は、どうだったの?」
いつの間にか店長は、ブランデーの瓶を持ってきていた。丸みを帯びたグラスに、慣れた手つきで注ぐ。とくとくといい音がした。軽くお辞儀をしてグラスを受け取った菊乃さんは、そのままためらわずにブランデーを口にした。ごくりと二回、喉が動く。
ちょっと待って、それ結構、いや、かなり強いお酒だったと思うけど……。
うーん、と天井を見つめたまま、菊乃さんは何事もなかったかのようにグラスをテーブルに戻した。
「穏やかそうで、わーっとしゃべるタイプじゃなかった。ゆったりとした空気が流れてて。私とは真逆」
「何の仕事してたんですか?」
「大手の通信会社で、システムエンジニア」
「顔は? イケメンですか?」
「あー、私、外見とかあんまり気にしないから」
「そこをなんとか! 似てる芸能人とかいます?」
「芸能人ねえ……」
菊乃さんはまた、顔色をいっさい変えずにグラスを傾けた。琥珀色の液体が、あっという間に喉の奥へと吸い込まれていく。
「あ。しいて言えば……」
と、菊乃さんはようやく思いついて、はっとした顔を私に向ける。
「しいて言えば?」
「オーランド・ブルームに似てたかな」
うううううそでしょ!?
完全に想定外の答えに、カフェラテをあやうく全部吹き出すところだった(というか、ちょっと出た)。おしぼりで口周りをぬぐいながら、あらためて、事実を受け止める。
「オーランド・ブルームって、あの、ロード・オブ・ザ・リングの白髪!?」
オーランドがくる婚活パーティーとかある!? 何それ? 六本木すごいな!
「ちょっと待って、しいていえばだよ? 本人じゃないから」
「じゃあオーランド・ブルームを何段階下げたらその彼の顔になるの?」
「えっ、うーん……。二段階くらい?」
「結構オーランド・ブルームじゃん!」
菊乃さんのことが、どんどんわからなくなってきた。あいかわらず平然とした顔で、そんなにかっこいいかなあ、私はトム・ハンクスのほうがイケメンだと思うけどなどとぶつぶつ言いながら、二杯目のブランデーに手をつけているところだった。
つい盛り上がってしまう。なんか、埋葬委員会じゃないみたいだな。ただの楽しい飲み会みたい。でも、菊乃さんの中に埋葬したい何かって、本当にあるんだろうか。
店長が持ってきたクラッカーに慎重にコンビーフをぬりながら、菊乃さんは話を続けた。
「で、なんだっけ……。あ、そうそう、街コンのあと三回くらいデートしたんだよね。付き合いはじめたのが、ちょうどクリスマス。すっごく寒い日だったな」
クリスマスって! なにそれ、めっちゃきゅんとするんですけど!
「告白は、どちらから?」
「向こうから」
「それは、どちらの場所で?」
「東京タワーだったかな」
「やばい、今のところいいとこしかなくない!? クリスマスに、東京タワーで、システムエンジニアのオーランド。理想のデートのストレートフラッシュじゃん!」
ほてった顔をおさえながら私は言った。
「別れる理由がまったく思いつかないね」と、店長もけらけら笑う。
「こっからどうやったら『どっちが大事なの』につながるわけ!?」
うずうずする気持ちをなんとかおさえこみ、続きを待つ。
クラッカーをごくんと飲み込んでから、菊乃さんは言った。
「……それで、東京タワーで夜景見て」
「ひい! 東京タワーで夜景!?」
「結城さん静かに」
「浜松町駅までの帰り道に……」
「うおおお浜松町!?」
「浜松町ってグッとくるポイントなんですか?」
「あ、そっか」
やばい、何を聞いても興奮してきちゃう。胸に手を当てて深呼吸し、息を整える。
「手はつなぎました?」
「つないだ、つないだ。つなぎながら歩いて、その途中で告白されたの」
うわっ……。
ロイヤルストレートフラッシュ、きたー!
黒田さんが息をのんで、その大きな手を口に当てる。思いがけない胸キュン話に、もはや黒田さんと私の言動が完全にシンクロしてしまっていた。
いや、なんか、動悸がやばい!
私は窓をちょっとだけ開けた。つめたい雨が指先に触れて、心地いい。
「ところで、オーランドは菊乃さんの、どんなところを好きになったのかな?」つまようじをオリーブに刺しながら、店長が訊ねる。
「聞いたことなかったなあ。別に、こっちから聞こうとも思わなかったし」
「えっ、私だったらめっちゃ聞いちゃうけどな。気にならなかったの?」
「だって、付き合ってるってことは、私のこと好きってことでしょ? 好きじゃなかったら、付き合わないじゃん」
そのセリフに、既視感があった。どこだっけ。どこで聞いたんだっけ。そうだ。恭平だ。彼もまったく同じことを言っていた。そんなわかりきったこと、なんでわざわざ聞いてくるんだよ、と。不安になった私があまりに何度も「私のこと好き?」と確かめようとするので、恭平は少しめんどくさそうに、ため息をついていた。
「でももしかしたらそれが、別れのきっかけだったのかもしれないなあ」
窓をさらに開け、菊乃さんは、身を乗り出す。
「付き合ってるってことは、この人は私のこと好きだし、結婚するってことだよね。よーし、確保! 将来の旦那、かーくほ! さっ、仕事しよ!」
と、菊乃さんは、両手で誰かをつかまえるジェスチャーをしてみせた。
「……みたいなね。私はさ、『婚活』っていう、一つのタスクをこなしてたんだよね。はい、旦那ゲット! 社会に、世間に指示された人生でいっちばん重いタスク、はー、ようやく終わった! これで仕事に集中できる! みたいな、そんな感じよ」
夜空を見上げる菊乃さんの目に、電灯の明かりが反射して、まばたきするたびに、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
「……ひどいよね、今思うと」
「いや、それは……」
菊乃さんが悪いわけじゃない。だって婚活というタスクは、二十九歳の女にとって、あまりにも重く、窮屈だ。私だって、四年付き合った末、二十九歳で別れることになったとき、あんまりだと思った。だったらせめてあと二年早く、ふってくれていたらと。
自分、このままでいいのかな。一生、ひとりぼっちなのかな。
みんなのウエディングドレスを見るたびに、ぼんやりと、そんなことを思う。
とにかく、手っ取り早くこのタスクを終わらせてしまいたいと思うこの気持ちに、罪があるかと聞かれて、はいそうですとは、私は言えない。
「でも、彼はそうじゃなかった。ちゃんと付き合って、いろんなところに出かけて、少しずつ心を通わせてから結婚したいタイプだった。しんどかったんだろうね」
窓のふちに寄りかかり、菊乃さんはじっと、雨粒で濡れていく手首を見つめていた。
「仕事ばっかりでなかなか会えない期間が続いて、彼が少しずつ、もやもやしはじめてるのには気付いてた。でも、そこで仕事をセーブするっていう選択肢は、とてもじゃないけど、私にはなかった。ちょうど昇進したばっかりのタイミングでさ。新入社員の頃に『こうなりたい』って思い描いてた仕事を、ようやくできるようになったタイミングだったの。もっと仕事したかった。やっとの思いで掴んだチャンスを手放すなんて、そんなのつらすぎるよ」
そうだ。やりたい仕事ができるようになるためには、時間がかかる。それをやらせる価値があると、まわりに認めさせなくちゃならない。ちゃんと戦えるだけの武器を用意しなくちゃならない。そして運の悪いことに、前線に立たせてもいいと納得してもらえる武器が揃うのは、私たちが一番、結婚したくてたまらない時期と重なってしまうのだ。
「休みもあんまり合わなくてね。この日は? って言われても断ってばっかり。デートでいいレストランを予約してたはずが、仕事で間に合わなくてキャンセル……みたいなこともよくあった。だから結局、おうちデートがほとんどだったよ」
「家で、ごはん作ってあげたりは、してたんですか?」
菊乃さんは体を起こし、バッグからスマホを取り出した。すっと私たちに画面を見せる。きれいに盛りつけされた煮込みハンバーグの写真だった。花柄のお皿の上に点を描く、ワイン色のデミグラスソース。添えられたレタスと、プチトマト。
「私、一時期、料理教室に通ってたのよ」
「え、うそ!」
菊乃さんは、有名チェーンの料理教室の名前を口にした。私も二十五歳くらいの頃に一度、体験入学で行ったことがある教室だった。婚活女子向け専用のコースがあったのだ。
「あっ、それ! 私が通ってたの、まさにそのコースだわ」
どうりで、やたらと写真映えする盛り付けなわけだ。菊乃さんは他にも、彼に作ってあげたという料理の写真を見せてくれた。シチュー、肉じゃが、オムライス。盛り付けもきれいだし、彩りのバランスもいい。どれも、レシピ本の表紙みたいな出来栄えだ。
「今気づいたけど、彼に作ってあげた料理って、そこで教わったものだけだったな……」
スマホを無表情でスクロールしながら、ぽつりとつぶやく。
「自分の好みの料理を出して、彼の口に合わなかったら困る。だから料理教室で習った、男の人が喜ぶものばっかり作ってた。『彼に喜ばれるよ』っていう先生の言葉のとおりに」
菊乃さんは、空いたグラスに手を触れた。察した店長が、黙ってブランデーを注ぐ。
「はじめて作ってあげたのが、このデミグラスソースのハンバーグだったの。彼、まんまと気に入ってさ。先生の言ったとおり。だからそれ以降も、簡単に作れて失敗しない、間違いないものだけを出してた。でも、今思うとそれって、自分の味じゃないんだよね。『いいお嫁さん』のテンプレート、そのまんまなんだよ。結婚したいだけだったからさ」
ぐいと、菊乃さんは一息にグラスをあおる。
「自分の好きなもの、本当にひとつも作らなかったんですか?」
菊乃さんは、少しじっと考え込んでから、横に首を振る。
「……結局、食べさせられなかった。私、長野出身だから、地元の野菜を使った料理とか、自分ひとりのときは、よく作ってたんだけどね。生姜焼きも、熟れたりんごをすりおろして、生姜と醤油とみりんを合わせてもみ込んでから焼いたり……」
「めっちゃおいしそうなのに!」
「彼にはずっと、料理教室で習ったとおりの生姜焼きを出してた。だって、りんごを入れて糖分が多くなると、焦げやすくなるんだよ。見栄え悪いじゃん。全国的に認められてるレシピの方が、確実。実家の味は、怖くて出せなかった。あのとき、出せば……」
違ってたのかな。
きっと、そう言いたいのだろう。
けれど菊乃さんはそれ以上の言葉を押し流すように、黙ってブランデーを口にした。
みんなが「正解」だと認めているものと、自分だけが「正解」だと思っているもの。もちろん、自分の「正解」を信じるべきだなんてこと、誰に言われるまでもなくわかっている。わかりきっている。
けれどはたして、みんなが「これが正解だよ」と大声で叫んでいる中、それに抗ってまで、自分の正解を選べる人が、いったいどれだけいるだろう。
そんな勇気、到底、私にはない。
*
ふっと体が思い出したように、急に足先が冷えてきたのがわかった。さっきまであった顔の火照りも、今はすんと引いている。
「それで……」
「ん?」
「埋葬したい元カレごはんって」
「ああ、そうだったね。チョコのこと」
菊乃さんは、伸びたジェルネイルの爪でテーブルをかちかちと鳴らす。
「バレンタインだったの。別れた日が。夜の七時くらいに赤坂で待ち合わせして、ちょっとお高めのビストロでごはんを食べて。でも、また私、やらかしちゃったのよね。ごはん食べ終わって、このあとどうする? って話になって」
「まさか……」
「あ、この時間だったら私、仕事に戻るわーって、言っちゃったの」
菊乃さんの持つグラスに、目が奪われた。きっとこうして、当時の二人もグラスを傾けていたのだろう。バレンタインだし、今夜はずっと一緒にいられるはずと、彼も期待していただろうに。
「『俺と仕事、どっちが大事なの?』って言われたのは、そのときよ。彼、ちっとも怒った顔はしてなかった。しゅんとして、ただただすごく、寂しそうだった。そこでやっと気づいたんだよね。あ、こんなこと言わせてしまったんだ、って」
菊乃さんは、鼻の下を人差し指ですっと擦った。
「だけど、あなたのほうが大事、仕事行くのやめるね、とは、どうしても言えなかった。だって本当に仕事あったんだもん。締め切りギリギリで、私が行かないとどうにもこうにも進められない案件があったの」
グラスの脚をつまみ、じっと空中を見つめている菊乃さんの背景に、赤坂のビストロの、六年前の景色が、くっきりと浮かんで見えるようだった。
「言われた瞬間、いろんな考えが、ぐるぐる頭の中をめぐってた。店長さんが言うように、『そんなこと言わせちゃってごめんね。今日はやっぱり一緒にいよう』って言おうかとも思ったんだけど、結局……」
「どうして、言えなかったんだと思う?」と、店長がそっとたずねた。
「なんでかな……」菊乃さんは、右のまぶたの下を人差し指で掻く。「さすがの私も、ここで『仕事』って口にしたらすべて終わりだって、直感でわかった。正直に言ったらこの関係はなくなる。だから一時的にでも、彼を安心させる言葉を選ばなきゃって。でもその瞬間、こうも思ったんだよ。もしかして彼は、終わらせたいからこそ、こんなふうに聞いてきたんじゃないか? って」
どきりとした。
私と仕事、どっちが大事か。そんな決められるはずもない二択を、あえて出してしまう気持ち。そうだ。わかっている。優劣はつけられないことくらい、百も承知だ。それでも、好きな人にこの質問をしてしまうのは——。
「彼もたぶん、決着をつけてほしかったんだよ。今この瞬間、多少のごまかしをしてでも自分との関係を続ける覚悟があるかどうか、たしかめたかったんだと思う」
多少のごまかしを、してでも。
ああ、そうか。だから私は、ショックだったんだな。
恭平が「別れようと言わせようとしてた」って言ってきたとき、ごまかさずに本音でぶつかってくる感じが、しんどかった。正直になるタイミング今じゃないよ、と思った。
自然体を求める自分がいる一方で、「もっとうまく私を騙してよ」と思ってしまう自分もいる。もっといい男のふりしてよ。誕生日くらい、ロマンチックなセリフを言える彼氏のふり、がんばってよ。そういう、夢を見たいタイミングと、現実を見たいタイミングが合うってことがもしかしたら、「相性」がいいってことなのかもしれない。
「それで?」
「それで……」菊乃さんは、一息つくように軽くため息をついた。「彼が言ったの。自分たち、なんか違うよねって。このまま会っててもよくないと思うから、別れ、ましょう。はい。って、終わり」
巨大な毒の槍でみぞおちをぐるぐるとかき回されたような気分だ。切なくて、苦しい。
かちかちという、菊乃さんの爪の音が、しばらく続く。
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