目の見えない精神科医が「私は目が見えないからお医者さんをやっている」と言う理由
人は誰かを支えているつもりでも自分が逆に支えられていることもある。誰かに支えられていると思っていても、その誰かを自分が支えていることもある。
北海道美唄市で「目の見えない精神科医」として働く福場将太さんは、「私は目が見えないからお医者さんをやっている」と言います。初の著書『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』よりお届けします。
支えることは支えられること
テレビドラマで武田鉄矢さんが演じた金八先生の有名なセリフに、「人という字は、人と人とが支え合っている姿を表している」というのがあるそうです。
正式な漢字の成り立ちはそうではないらしいのですが、金八先生の影響力はすさまじく、リアルタイムにドラマを見ていない私もこの解釈で「人」という漢字を教わりました。
確かに、棒に見立てた2人の人間が支え合っている姿に見えますね。
しかし穿(うが)った見方もあって、「支え合っているように見せかけて、長い棒が短い棒のほうに寄りかかっている。長い棒のほうが楽をして、短い棒は苦労している」という意見もあるそうです。
確かにそんなふうにも見えます。しかし本当にそうでしょうか。もし長い棒がいなくなってしまったら、短い棒はどうなるでしょう。
注目ポイントは短い棒も傾いているということ。
そう、お察しのとおり、長い棒がないと短い棒は倒れてしまいます。短い棒は長い棒を支えることで、自分も立っていられるわけですね。
負担は均等ではないかもしれませんが、やはり2本の棒は支え合っている、お互いの存在が必要で、どちらも相手に支えてもらいながら相手を支えている、と言えるのではないでしょうか。
もう1つ大ヒットしたテレビドラマから引用しますと、2003年から2004年にかけて放送された平成版『白い巨塔』の中で、大学を追われた里見先生が恩師に対してこんなことをおっしゃっています。
「診察する場を失って身に沁(し)みました。私は患者を救っていたのではなく、患者によって救われていたのだと」
医者と患者の関係も支え合いなのです。毎日の診察で、私は患者さんを支えようとしながら自分が支えられていることを痛感しています。
そのキーワードは「お荷物感」と「役に立ちたいという願い」です。
お荷物感というのは、正式な医学用語ではありませんが、「自分は迷惑をかけているだけのお荷物だ」と感じてしまうことで、うつ状態を悪化させたり、時には自殺に繋がったりもするストレスの強い感情です。
たくさん友人に助けてもらって生活し、たくさんスタッフに助けてもらって仕事をしている日々の中、ちょっとでも油断するとこのお荷物感は私の心の中でむくむくと膨らんでいきます。私がいないほうが友人は楽なんじゃないか、私じゃなくて目が見える先生がここにいればスタッフにこんな負担をかけずに済むのに……お荷物感が強まってくるとついそんなことを考えてしまうのです。
それに抗うのが「誰かの役に立ちたいという願い」。
誰かの役に立つことができれば、自分はお荷物じゃないと思える。だから精神科医という支援の仕事は、私自身の心を支えてくれているのです。漫画の神様・手塚治虫先生が生み出したあの天才外科医のブラック・ジャックもこう叫んでいます。
「それでも私は人を治すんだ。自分が生きるために!」
凡人精神科医である私もその気持ちは同じです。
「目が悪いのにお医者さんをやってるなんてすごいですね」と言ってくださる方が時々いますが、実情は全く逆。
私は目が見えないからお医者さんをやっているのです。
「誰にも迷惑をかけなかったけど、誰の役にも立てなかった人生」よりも「たくさん迷惑もかけたけど、ちょっとは役に立ったかなと思える人生」を私は生きたいと思うのです。
そして、これは患者さんも同じではないかと気がつきました。患者さんもお荷物感に苦しんでいる。誰かの役に立ちたいと願っている。
「役に立ちたい」という願いは人間の根源的な欲求です。
どんなに安全が守られても、どんなに生活に不自由がなくても、誰の役にも立っていないとほとんどの人間は虚しさを感じます。
病気や障がいのせいで仕事や家事ができていないと、患者さんはますますその虚しさを強めます。
そして支援者に支えてもらえばもらうほど、お荷物感を強めてしまうのです。
ある時、視覚障がいのことを知った患者さんが、病棟で迷っていた私を出口まで無言で誘導してくれました。
またある時は、外来で診察中に壁に貼っていたカレンダーがはずれて落下してきたのですが、私にぶつかる前に患者さんがすっくと立ち上がって受け止めてくれました。
どちらの場合も、私が思わず「ありがとうございます」と伝えると、普段はしょんぼりしている患者さんが少し明るくなった気がしました。
そうだ、患者さんたちも誰かの役に立ちたいんだ。
患者さんに元気になってもらうためには、患者さんを「支えられるだけの存在」にしてはいけない。
私が支援の仕事をしているから自分の心を保っていられるように、患者さんにも誰かの支援者になってもらわねば!
ちょうど都合の良いことに私は目が見えません。障がいを持つ医師だからこそ、私には患者さんに助けてもらえる余地がありました。
患者さんに視覚を支えてもらいながら、私は患者さんの心を支えればいい。
白衣を着ている人間の悪い癖で、「危ないから無理してしなくていいですよ」「私たちがしますから何もしなくて大丈夫ですよ」と、患者さん自身の「役に立つチャンス」を奪ってしまうことがよくあります。
しかし、「人」という文字が時には「入」に逆転しながら、支えながら支えられ、癒していたら癒されて、そんなお互い様のおかげ様の医療を目指していけたら。
親が子どもを支える動物はたくさんいます。
ですが、若い者が老いた者を支えたり、元気な者が病んだ者を支えたりする動物は人間だけ。
支え合いはとても人間らしい営みなのです。
「ありがとうございました」
そう言って診察室を出て行く患者さんに、私はこう返すようにしています。
「こちらこそありがとね」
そのうちこっちもお金を払わなくちゃいけなくなるんじゃないのかな。
支えてもらうことに
罪悪感を抱く必要はない。
支えている人も
そのおかげで立っている。
人間は持ちつ持たれつ、
お互い様のおかげ様。
<本稿は『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
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【著者】
福場将太(ふくば・しょうた)
1980年広島県呉市生まれ。医療法人風のすずらん会 美唄すずらんクリニック副院長。広島大学附属高等学校卒業後、東京医科大学に進学。在学中に、難病指定疾患「網膜色素変性症」を診断され、視力が低下する葛藤の中で医師免許を取得。2006年、現在の「江別すずらん病院」(北海道江別市)の前身である「美唄希望ヶ丘病院」に精神科医として着任。32歳で完全に失明するが、それから10年以上経過した現在も、患者の顔が見えない状態で精神科医として従事。支援する側と支援される側、両方の視点から得た知見を元に、心病む人たちと向き合っている。また2018年からは自らの視覚障がいを開示し、「視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる」の幹事、「公益社団法人 NEXTVISION」の理事として、目を病んだ人たちのメンタルケアについても活動中。ライフワークは音楽と文芸の創作。
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