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推しのツイートにいいねが押せません

「当方、推しに認知されたくないオタクです」

『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』の著者でライターの横川良明さんは、こんな心境を明かします。

『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』 サンマーク出版
『人類にとって「推し」とは何なのか、
イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』

ねじれ曲がった自意識

 人間は、承認欲求の塊だと言います。人から認められたい。必要とされたい。そう願うのは、ごく自然な心理。そして、罪深いかな、推しに対しても同じように思ってしまうのが多くのオタクの本能。遠い星の住人のような推しから、自分という存在を認識してもらうこと。顔や名前を覚えてもらうこと。ある種のオタクにとって、これはひとつのステータスです。推しから認知してもらうために、握手会やファンミーティングなどのイベントに足繁く通うファンも少なくありません。

 が、僕にとってこれ以上ないぐらいにおそろしいのが、この認知。当方、いわゆる推しに認知されたくないオタクです。

 なぜ推しから認知されたくないのか。ちょっと真面目に考えてみましょう。真っ先に挙げられるのは、とにかく推しの視界に自分を入れたくないという、ねじれ曲がった自意識の問題です。

 僕のようなオタクにとって、推しは神様と呼んでも過言ではない存在。そんな推しと相対するのに、「接触する」なんてカジュアルな言い回し、無礼にも程がある。できれば「謁見」とかに言い換えてほしいし、なんなら推しは、大魔王バーンさまみたいに薄いヴェールの向こうにいてシルエットだけ見えるくらいの方が安心感がある。

 そもそもの話、僕は自分なんかが応援していることは推しにとってマイナスでしかないと思うタイプのオタクなので、語彙としてはいつも応援させて「いただいている」くらいの方がしっくりきます。

 推しのご迷惑にならないように、ひっそり息をひそめて見守る感じ。失踪した産みの母が、自ら母ですと名乗り出ることもなく、スポットライトを浴びて輝く息子を柱の陰からそっと覗き見しているあの感じ。間違ってもご本人を前に「ファンです」とか言えないし、もし機会があったとしても、ツーショットとか撮れない。

 なんなら推しのツイートにいいねを押すのも無理だし、インスタライブとかでコメントするのも無理。もちろん、推しは何千何万といいねを押されているんだから、そのうちのひとつなんて目にも入らないことくらいわかっているんです。インスタライブのコメントだって、あっという間に画面の彼方かなたに消えてゆくだけ。何も気にすることなんてないことは頭では理解しているのです。

 でも、じゃあなぜそれがうまくできないのかと言うと、推しに認知されたくないのもあるけれど、それ以上に推しを目の前にしてバグを起こしている自分の状態を認識するのが辛いから。キャーと黄色い歓声をあげようにも、喉から出てくるのは野太いおっさんの声。ときめきに頬を赤らめる表情は、イメージビジュアルは『ママレード・ボーイ』の光希(みき)あたりなんですけど、実際には茹でだこみたいなオタクが舞い上がっているだけ。僕がチャオズなら今すぐ自爆したい。

 崇高なる推しの視界には、常に美しいものだけが映っていてほしいというのが心からの願い。想像してしまうんです。あのガラス玉みたいにキラキラの眼球に、自分が映る光景を。もう汚物以外の何物でもない。

推しが上る階段のレンガに僕はなりたい

 さらに考えていくと、なんで自分がこんなに認知が怖いのかって、それが泥沼の第一歩だから。一度認知されたとします。そうすると、きっとどんどん推しに対して「もっと自分を見てほしい」「自分だけを見てほしい」という欲望が膨らんでくる。推しにとって、自分なんてたくさんいるファンの中のひとりでしかないはずなのに、つい特別なひとりになりたがる。

 その結果、生まれてくるのは、「これだけ推しているのに」「これだけ尽くしているのに」という一方的な被害者意識。自分が人よりちょっと愛情重ため人間であることを重々承知しているからこそ、「この森の奥へは行ってはならぬ……!」と村のおばばみたいな顔して自分に言い聞かせているわけです。

 オタクたるもの、「自分が勝手に推しているだけ」ということを、常に忘れないように心の額縁に入れておきたいところ。こうやって推させていただいているだけで、すでに楽しい時間をもらっているわけだから、それ以上の見返りを望むのは筋違いという話です。

 願うことと言えば、推しが心身ともに健康であること。推しが自分のやりたい仕事に打ち込めていること。それだけです。芸能界は、修羅の道。頂を目指すには、一段一段、着実に階段を上っていくしかありません。ならば僕は、その階段のレンガのひとつになりたい。僕というレンガを踏んで推しが一段上へとステップアップし、いつかその背中が見えなくなるぐらい遥か先まで上ってくれたら、もう望むことはありません。おとなしく辞世の句でもしたためます。

 そして、生き別れになった母が残されたたった一枚の写真を頼りに息子との思い出を噛みしめるように、いつか手が届かないくらい推しが大きくなったとき、大量に買いあさったグッズやら雑誌やらを整理しながら「よくがんばったね……」と喜びに打ち震える。そういうオタクに僕はなりたい。

<本稿は『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>


(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
Photo by Shutterstock

【著者】
横川良明(よこがわ・よしあき)
ライター

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