責任をなすりつける人とミスを自分から認められる人に生じる決定的な大差
組織で何か問題が起きた。
責任の所在が明確にされず、負う必要のない者に責任がなすりつけられた。リーダーが「責任は自分にある」と言いながら、誰かの首を切った。
こうした非難や責任のなすりつけが起こっている組織に居ると分かったらどうしたらいいでしょうか?
「変化への不安」の根底心理を探り、「行動できる」自分に変わる方法を解いた『命綱なしで飛べ』よりお届けします。
不当な告発、責任のなすりつけ合い
ハーバード・ビジネススクールのスコット・スヌーク教授は、『友好砲撃 なぜ北部イランでアメリカのブラック・ホークは撃墜されたか?』(未邦訳)で、なぜ「フレンドリーファイア」(味方による誤射)が起こるか、広範に調査している。
第一次イラク戦争が終結した1994年4月14日、アメリカ軍は多国籍軍とともにイラク北部のクルド人の警護にあたっていた。サダム・フセインはそれまでの5年間で約50万人のクルド人を殺害していた。
多国籍軍の「統制された」軍事力がクルド領上空に飛行禁止区域を設定し、早期警戒管制機エーワックス[敵機を発見し、空中から味方の航空部隊を指揮する機能を備えた航空機]が高度3万5000フィート(約10キロ)以上の地点で監視していた。にもかかわらず、アメリカ空軍のF15戦闘機隊が同じアメリカのヘリコプター、ブラック・ホーク数機を撃ち落としてしまった。
ヘリコプターに搭乗していた民間人を含む26名の命が一瞬にして奪われた。任務に就いてわずか20分後のことだった。
事故の調査によって、複数の部署の関係者がミスを犯していたことが明らかになった。飛行禁止区域(NFZ)の全軍事行動の責任者ジェフリー・S・ピルキントン将軍は、戦闘機がNFZに入るのを許可するにあたり、そこにブラック・ホークがいることを誰にも知らせていなかった。
エーワックスでNFZを監視していた将校たちも、ブラック・ホークは友軍のヘリであるとF15機のパイロットたちに知らせていなかった。その結果、F15機のパイロットはブラック・ホークが友軍機だと認識できなかった。
IFFコード[敵軍を識別するシステム]も全軍防御システムに統合されていなかった。
個人、チーム、組織全体、システムの各所にミスがあった。
だが、すべてが明らかにされたのち、責任を問われたのはアメリカ空軍のジェームズ・ワン大尉ただひとりだった。
「ワン大尉は責任を負わされた」「全作戦の責任を負っていたのはピルキントン将軍だ」「ピルキントン将軍こそ起訴されるべきだ」との意見が噴出した。
こうした責任のなすりつけ、不当と思われる告発は今も見られる。
「責任は私にある」というリーダーが誰かの首を切る
この事故で誰も自ら責任を認めることはなかった。
「はい、私が間違いを犯しました。この大惨事の責任は私にあります」と言った者は誰もいなかった。
事故の関係者は、誰もが人に責任をなすりつけるために多くの時間とエネルギーを費やした。
組織内で責任の所在が明確にされないことを示す際、この話をよくする。聞いてくれる経営幹部は、身近に思い当たることがあるようだ。
「まるでうちの部署のようです。私たちの話のようです。『負う必要のない者に責任が押しつけられる』とのことですが、私たちの部署では『事故は起こるべくして起きている』と思うべきかもしれません」
組織では、誰もが自分への非難は受け入れず、すぐにほかの人に責任をなすりつける。リーダーの多くは「責任を取る」と言うが、口だけだ。
「責任は私にある」と言いながら、自分ではなく誰かの首を切る。
結果を求める者の多くは自らのミスに注目が集まりそうになると、ただちにほかの人が犯したミスを声高に指摘する。
先ほど挙げたアメリカ空軍の「味方による誤射」の例と同じで、過失はひとりではなく、複数の者によって引き起こされる。
2009年から2010年にかけて北米や日本でトヨタ自動車の大規模なリコールがあったが、これは言うまでもなくトヨタの一社員の責任などではない。
すべてが明らかになると、あらゆる立場の人があらゆる場所でミスを犯していたことがわかった。
自分を変えるなら、自ら間違いを認める勇気と覚悟が強く求められる。「もっともらしく否定する」考え方にとらわれ、自分は悪くないと膨大な〝証拠〟を突きつけつづけるようなら、自ら間違いを認めることなどまず期待できない。
あなたが身を置く組織の文化が他者への非難をどれほど助長し、自分のミスの責任を取ることをどれほどむずかしくしているか、考えてみる必要がある。
次の質問に答えてみよう。
「小さなミス」で認める練習をする
あなたの職場で「誰かを非難する」文化が感じられるようなら、価値観の異なる会社で仕事を探すときかもしれない。人を非難して責任をなすりつけることは多くの職場で見られ、はてしなく繰り広げられる。
そこで判断すべきは、非難や責任のなすりつけがどの程度広がってしまっているかだ。
よくあることか? それともごく稀か?
管理職がその場でかっとなって部下を怒っても、あとで謝罪し、責任の一部またはすべてを受け入れることはあるだろうか?
懲罰なしで非を認められるのが理想的な職場だ。
試してみよう。職場の気風を確認するのだ。
小さなミス、たとえば出荷が遅れた、プレゼンがうまくいかなかった、アポに遅れたといったことがあったとき、自分にも何らかの責任があるとして、「それは自分のミスによるものです」と意識して話してみよう。
あなたの職場が寛容なら、自分のミスだと認めても、何ら罰せられることはないだろう。
上司に責められることはないし、同僚に無能と思われることもない。
それどころか、正直にミスを申し出ることでプラスの効果がもたらされるはずだ。
あなたは正直で隠し立てしない人だと思われるだろう。自分のミスを認める勇気を持っていると見なされるだろう。
言うまでもなく、誰もがなるべく間違いを犯したくないし、自分のミスだと認めることもできる限り避けたい。
だが、ミスを認めることで解放される。「人を非難する罠」から抜け出すことができるのだ。
自分が間違っていたと白状すれば、仮に弱い立場に置かれ、攻撃の対象にはなったとしても、想像していたほどひどいことにはならない。
それどころか、安心感が得られるはずだ。
ちょっとしたミスを認めることで、大きなミスをしてしまったときにも同じことができる。
これによって、ついに「恰好悪くてもいいから、望ましいことができる」ようになれるのだ。
「イメージ」を矯正する──正直になる方法
人を非難すれば、一瞬だが、自分の欠陥に目をつぶることができる。自分は指折りの有能な人間だと考える人は、プライドを捨てて間違いを犯したなど認められない。
自分のミスをある程度わかっていて、認めるのが正しいことだとどこかで思っていても、自分が作り上げた「自分のイメージ」がそうさせない。
イメージを守りたい。自分はミスをせず万事仕事をこなすという評判を維持したいから、間違いを犯したなど認められない。
そこで誰かに責任をなすりつけて責め立てれば、まわりの人だけでなく、自分も欺ける。過ちを犯したのは自分ではない、誰か別の人だと全員に思い込ませることができれば、これまで通り有能で洞察力も備えているという偽りのイメージが維持できる。
大事なのは、誰かを非難することで安心感が一時的に得られるかもしれないが、あなたのキャリアも社員としての価値も崩壊する可能性があると認識しなければならないことだ。
<本稿は『命綱なしで飛べ』(サンマーク出版)から一部抜粋して再構成したものです>
(編集:サンマーク出版 Sunmark Web編集部)
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